【登場人物】
岸辺 義道:映画監督を目指す永遠の留年生。実家は小古八幡地区の古い寺。斜に構えた言動をとるが、実は純情で不器用。
ボラン 京子:元ドイツ歌曲の講師。完璧な美意識と気品を持つが、愛犬の前では理性が崩壊する。
フィデリオ(フィディ):京子の愛犬である大型犬(レオンベルガー)。
【場面設定】 岸辺の実家である古い寺の境内。 縁側に座った岸辺が、膝の前の文机に置いたノートPCに向かい、両肘を空中に浮かせたまま険しい顔でキーボードを叩いている。

小古八幡地区にある古い寺の境内。夕暮れ時。開け放たれた障子の奥から線香の匂いがわずかに漂い、縁側ではパソコンのキーを叩く乾いた音と、砂利を踏む足音が響いている。
塗装の剥げた低い文机の上で、ノートパソコンの画面が白く光っている。
岸辺義道は縁側であぐらをかき、両肘を宙に浮かせた窮屈な姿勢でキーを叩いていた。首をすくめ、時折キーボードから片手を離して自分の肩を揉む。
「あかん、肩が鉛みたいや」
誰もいない境内に独り言が落ちる。岸辺は顔をしかめながら、再び両肘を張り直す。
山門の方から、砂利を踏みしめる音が近づいてきた。ここあん村でドイツ歌曲を教えるボラン京子が、大型犬のフィデリオのリードを引いて歩いてくる。京子は縁側の前まで来ると足を止め、義道の姿勢を見た。
「ちょっと、そこのお寺の息子さん」
岸辺が画面から顔を上げる。
「あ、ボラン先生や。お疲れさんまの塩焼き定食です」
「変な挨拶はおよしなさい。それより、その窮屈そうな格好は何なの。見ているこちらまで息が詰まるわ」
京子はフィデリオのリードを縁側の柱に軽く引っ掛けると、岸辺のすぐ後ろへ回った。そのまま迷いのない手つきで、岸辺の浮いた両肘から二の腕にかけて自分の両手を添える。
「うわ、なんですか急に」
かすかに香水の匂いが漂い、岸辺が首をすくめる。
「動かないで。ほら、肩から腕まで石みたいに硬くなっているじゃないの。人間の腕はね、片方だけでも三キロから四キロはあるのよ。それを肩の力だけでずっと宙に吊り下げていたら、血が止まるわ」
京子の指が、岸辺の凝り固まった肩口をぐっと押さえる。
「いや、これは脚本を書く人間の苦しみっちゅうか、映画的な構図を目指しとるだけで……って、そこ押されると」
「痛いんでしょう? 格好つけないの」
京子は岸辺の両腕を下から支えたまま、左右へゆっくりと揺らし始めた。
「ちょ、先生、後ろから揺らさんといてください。二人羽織みたいになってますって」
「私の伴奏をしてくれるピアニストたちだって、肘を浮かせて弾いているように見えるでしょう。でも実際は、肩の力を抜いて、腕の重みを指先から鍵盤に預けているだけなの。あなたみたいに小さな箱の前で固まっていたら、すぐに腱鞘炎になって指が動かなくなるわよ」
京子は岸辺の肩から手首へと掌を滑らせ、すっと手を離した。支えを失った岸辺の両腕が、膝の上へ落ちる。
「何か書くつもりなら、無理に肘を浮かせないで、その重たい腕をどこかに預けなさい」
「預けるって、この机、低いんですよ」
岸辺が苦笑して肩を回す。京子はそれ以上は踏み込まず、一歩後ろへ下がった。
そのとき、柱のそばでおとなしく待っていたフィデリオが、鼻を鳴らしながら縁側へ近づいてきた。岸辺の膝先を嗅ぎ、尻尾をゆっくりと振る。そのまま、あぐらをかいた岸辺の懐へ大きな頭と前足を突っ込んだ。
「うわ、なんやこのデカい犬。急に入ってくんな」
フィデリオは岸辺の膝の上に顎を乗せ、分厚い背中を岸辺の両肘の下へ滑り込ませた。
「おい、重たいなこいつ。あれ、せやけどこの背中、高さがぴったりやぞ」
岸辺は試しに、毛並みの豊かな背中に両肘を乗せてみた。
「しかも温かい。肩がだいぶ楽やわ」
フィデリオが嬉しそうに鼻を鳴らし、岸辺の顎の下を舐める。
「くすぐったいって。お前、俺のことがそんなに好きなんか」
「ちょ、ちょっと」
後ろから、先ほどまでの落ち着いた声とは打って変わった高い声が響いた。振り返ると、京子が両手で頬を押さえて目を見開いている。
「フィディちゃん。どうして初対面の男の子の肘置きになっているの。ママ以外の前でそんなくつろいで見せるなんて、許しませんよ」
「え、こいつ普段はこんなんちゃいますの」
義道には応えず、京子は愛犬に話し続ける。
「フィディちゃんはなんて優しい子なんでしょう。肩が痛いって泣きそうなおじちゃんを、その背中で助けてあげたでちゅね、偉い子ね」
京子はワンピースの裾が砂埃に触れるのも構わず、縁側の端に膝をついて、岸辺の懐にいるフィデリオの首元へ抱きついた。
「うわ、先生、犬ごと俺の膝にしがみつかんといてください」
「ママにもその毛並みを分けなさい、フィディちゃん」
京子が犬の首筋に頬を寄せ、フィデリオがさらに岸辺の胸元へと頭をすり寄せる。その振動で、背中に肘を乗せたままの岸辺の指先がキーボードを勝手に叩いた。
「先生、そのまま犬を撫で回すのやめてもらえますか。肘置きが揺れて、さっきから画面に、意味のない文字がずらずら並んでいくんですわ」
「静かになさい。今はフィディちゃんがあなたを癒やしている時間なのよ。そのまま動かずに、腕の重みをフィディちゃんに預けていなさい」
岸辺は短く息を吐いてキーボードから指を離し、大型犬の温かい背中に両肘を深く預け直した。夕暮れの境内に、犬の荒い息遣いと、京子の衣擦れの音だけが残った。
了
作・千早亭小倉




