これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
仮設団地での巡回日、一人の若いお母さんからリクエストがあった。「子育てに関する本はありますか」と。私の頭の中では、即座に「日本十進分類法・599」の棚が検索される。でも、ここは800冊ほどしか積めない、移動図書館ロマコメ号。完璧な書架など、どこにもない。
リクエストの主は、数日前に出産したばかりなのだという。彼女の腕には、まだ目も開いているのか定かでない、小さな赤ちゃんが収まっている。その小さな生命の登場に、仮設団地の空気が、ふわりと色を変えた。
どこからともなく、他のお母さんたちが集まってくる。
「ああ、この重さ、懐かしいわあ」
一人が、許可を得てそっと赤ちゃんを抱きながら、遠い目をする。
「抱きたいけど……今、畑仕事の後で手が汚れてるから、やめとくね」
別の一人が、名残惜しそうに、でも優しく身を引く。
「大きくなったら抱きたくても抱けなくなるんだから。今のうちに、うんといっぱい抱っこしてあげなさいよ」
少し年嵩の女性が、新米ママの肩を叩く。
それは、まるで「生きたレファレンス・サービス」だった。経験と共感と配慮に裏打ちされた、的確で温かい情報の交換。書誌データも索引も、そこにはない。ただ、確かな知恵だけが手渡されていく。
私はロマコメ号の限られた書架から、なんとか2冊の本を探し出した。『女の子の育て方』と、ある男性タレントが書いた育児エッセイ。赤ちゃんが男の子だったらどうしよう、エッセイは少し情報が古いかもしれない。私の提供できる情報は、こんなにも不確かで、不完全だ。
本を差し出す私と、赤ちゃんを囲んで笑い合うお母さんたち。その間には、見えない境界線があるようだった。彼女たちの共有する「知」は、活字になった知識とはまったく違う次元にある。
ふと、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の一節を思い出す。「かんじんなことは、目に見えないんだよ」。今、目の前で交わされている言葉や眼差しこそが、きっと一番「かんじん」な情報なのだ。私の持ってきた本は、広大な海に浮かぶ、小さなブイのようなもの。無いよりはましな、ただの目印。そういえば、この前も『星の王子さま』を思い出したことがあったな。
それでも、新しいお母さんは「ありがとう、嬉しい」と言って、私が探し出してきた2冊の本を受け取ってくれた。その腕の中で、分類不能の小さな生命が、ふにゃ、と小さな声を出した。
私の完璧な秩序は、この日、またしても揺さぶられた。でも、それは不快な揺れではなかった。むしろ、私の築いた防衛線の外側で、こんなにも力強く新しい世界が始まっているという事実に静かな畏怖を感じていた。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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