プチ考察「箱庭ドラマの魅力」

千早亭小倉です。

私は、架空の「ここあん村」を舞台にした、コント台本や掌編を書いていますが、テレビドラマにも、箱庭的な設定が重視するものがけっこうありますよね。いや、ほんとはそれほど数はないけれど、箱庭志向(?)が強い私が、自然とそういうドラマに惹かれる、アンテナが伸びていってるだけかもしれませんが……。今回はそんなドラマのお話を、一視聴者、テレビドラマファンとして。

おもしろいドラマいろいろありますけど、最近おもしろかったのは、宮藤官九郎が脚本だけでなく、企画・監督も務めた『季節のない街』(原作は山本周五郎)、三谷幸喜脚本『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』、主演の松田龍平が企画に加わった沖田修一監督・脚本の『探偵さん、リュック開いてますよ』などが記憶に残ってます。気がつけばどれも、「特定の限定された空間・コミュニティ」を舞台とした群像劇、すなわち非常に魅力的な「箱庭ドラマ」でした。

以下、いま名前をあげた3作品の箱庭性について、「空間」「人間関係」「外界との境界」などから、その魅力を考えてみたいと思います。

1. 空間の箱庭性:外界から隔離された「小宇宙」

箱庭ドラマの最大の条件は、舞台となる空間の特異性と限定性です。

『季節のない街』では、12年前の“ナニ”と呼ばれる災害で被災した人々が身を寄せる「仮設住宅」が舞台となっています。本来は一時的な避難場所であるはずの仮設住宅が、彼らにとっては長年暮らす日常の「箱庭」として機能しています。

三谷幸喜脚本の『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(以下、『もしがく』)は、1984年の渋谷にある架空の繁華街「八分坂」と、そこにあるストリップ劇場「WS劇場」が舞台です。この作品では千葉県茂原市に巨大なオープンセットを建設し、現代の現実世界から完全に切り離された「1980年代の街」という閉鎖空間を物理的にも作り上げています。

松田龍平主演の『探偵さん、リュック開いてますよ(以下、『探偵さん』)』では、長野県の「西ヶ谷温泉」という寂れた温泉街と、主人公が暮らす休業中の温泉旅館「ゆらぎや」を中心とした町が舞台となっています。

2. 人間関係の箱庭性:はみ出し者たちによる濃密なコミュニティ

3作品とも、箱庭空間に、社会の主流から少し外れた、個性豊かで訳ありな人々が集い、濃密な関係性を築いています。

『季節のない街』の仮設住宅には、ホームレスの親子や、様々な事情を抱えた家族など、多様な個性を持つ人々が肩を寄せ合って生きています。

『もしがく』のWS劇場には、風営法改正によって客足が遠のいたストリップ劇場に、横暴さゆえに劇団を追放された演出家、限界を感じるダンサー、売れないお笑い芸人、神主などが行き場を求めて集まります。社会の片隅に吹き溜まったともいえる人たちが、シェイクスピア劇の上演という目標に向かって一つにまとまっていく過程は、箱庭ならではの群像劇の魅力です。

『探偵さん』の西ヶ谷温泉には、探偵の主人公や腐れ縁の同級生たちといった地元の住人に加え、都会からの動画配信者、さらには海外から訪れたFBI捜査官や、タイムスリップしてきた真田十勇士の家来までもが定住してしまいます。

3. 外界との境界と非日常の交錯:箱庭にもたらされる化学反応

箱庭ドラマの面白さは、閉じた空間に「外部からの異物」や「非日常」が入り込むことで起きる化学反応にあります。

『季節のない街』では、主人公の半助が外部の人間から依頼を受け、街の様子を報告するために仮設住宅に潜入しますが、次第に街の住人として同化していきます。

『もしがく』では、外部のテレビプロデューサーによる引き抜きが起きたり、劇場を採算の取れる「ノーパンしゃぶしゃぶ」に改装しようとする資本の論理が介入したりと、現実社会の波が箱庭を揺るがします。

『探偵さん』では、地底人やタレント猫を追う猫探偵、さらには時空を超えた歴史上の人物といった突拍子もないファンタジー要素が温泉街という日常の箱庭に現れます。しかし、彼らもまたこの街の不思議な包容力に飲み込まれ、いつしか箱庭の住人となっていくのが特徴です。

4. 『海に眠るダイヤモンド』における時代変遷のある箱庭性の考察

先の3作品は、リアタイで見ることができたのですが、最近、再放送で運よく見ることができ、その箱庭性にはまってしまったドラマがあります。野木亜紀子脚本『海に眠るダイヤモンド』です。

『季節のない街』『もしがく』『探偵さん』が「社会の周縁」「はみ出し者たちの避難所」としての箱庭を描いているのに対し、『海に眠るダイヤモンド』は、日本の高度経済成長期を最前線で支えた石炭産業の地であり、人口が5,000人に迫るほどの活気を見せていた長崎県・端島(軍艦島)を舞台としています。

この作品は、前述の3作品とはスケール感やベクトルが異なるものの、非常に秀逸な「時代変遷のある箱庭ドラマ」としての特異性を持っています。

a. 海に囲まれた究極の「運命共同体」としての箱庭

舞台となる端島は、海に囲まれた隔離された空間です。日本の発展を支えるエネルギー産業の中心地でありながら、炭鉱員やその家族たちは、落盤や坑内火災といった死と隣り合わせの過酷な環境下で働いています。そのため、単なるご近所付き合いを超えた、極めて濃密で熱狂的な「運命共同体」としてのコミュニティが形成されており、箱庭特有の人間関係の強さが最大限に描かれています。

b. 異物の来訪と時空を超えた記憶の交錯

この箱庭にもまた、外部からの「異物」が介入します。1950年代の過去パートでは、何者かから逃れてきた謎多き歌手・リナが端島にやってきて、見事な歌で活気をもたらし、やがて島の一員として受け入れられます。一方、現代(2018年)パートでは、新宿・歌舞伎町で生きる売れないホストの玲央が、謎の老婦人・いづみに出会い、端島へと連れ出されます。過去の熱狂的な箱庭の記憶と、現代の東京の様子が交錯することで、箱庭に秘められたドラマが紐解かれていきます。

c. 箱庭のライフサイクルと「終焉」の存在

本作は、端島という箱庭の繁栄から崩壊までのライフサイクルを最も克明かつ壮大なスケールで描いています。1950年代、水道が引かれ人口が5,000人に迫るほどの活気を見せていた端島ですが、1964年に起きた坑内火災により苦渋の決断として水没放棄が選択されます。石炭産業の衰退という避けられない時代の波によって多くの島民が島を去り、やがて1973年の閉山を経て、翌1974年には最後の定期船で人々が島を後にします。かつて熱狂を生んだ巨大な箱庭が、完全に役目を終えて現代の廃墟へと至る「箱庭の死」が圧倒的な喪失感をもって描かれています。

5. 箱庭に訪れる「終わり」と、それぞれの終焉の形

一般的なドラマにおける限定空間が「終わらない日常」を前提としがちであるのに対し、先の3作品に、『海に眠るダイヤモンド』を加えた4作品の最大の特異性は、「このコミュニティは永遠には続かない」というタイムリミットや終焉を、物語の基本構造として深く内包している点にあります。

ただし、その終わりの性質は作品によって少しずつ異なります。

まず、私がリアルタイムで視聴した『もしがく』『季節のない街』『探偵さん』には、それぞれ形は違いますが「モラトリアムの終わり」と呼べるものが描かれていました。

『もしがく』が主な舞台とした「WS劇場」には、「3週間以内に経営を立て直さないとノーパンしゃぶしゃぶに改装される」という明確なタイムリミットが最初から課されています。最終回に向けて劇団員たちがそれぞれの道へ旅立ち、街から卒業していく明確な「解散」の模様が描かれました。

『季節のない街』の「仮設住宅」は12年間も存続した設定ですが、本来は一時的な避難場所です。復興が進めばいずれは取り壊され、住人たちは立ち退きを迫られるという、最初から「いずれ必ず失われること」を前提としたかりそめのユートピアでした。ドラマで描かれるのは、その12年間の「歴史」の終盤部分です。

そして、『探偵さん』に登場する温泉旅館「ゆらぎや」は、ドラマ開始時にすでに本来の旅館としての役割を終えて営業を停止している場所です。そこに行き場を失った人々が滞在するという、いわば「終わりの先にあるモラトリアム」として機能していました(実際には、箱庭に欠かせない存在として、探偵さんと、その仲間たちの猶予期間は続くことになるのですが)。

これら3作品が「いつか終わる架空の避難所」を描いていたのに対し、『海に眠るダイヤモンド』が描く終焉は、決定的に性質が異なります。

『海に眠るダイヤモンド』の舞台である長崎県・端島は、エネルギー革命という避けることのできない巨大な歴史の波に直面します。1964年の坑内火災による水没放棄の決断を経て、1973年の閉山、そして1974年の完全無人化へと至るプロセスは、史実に基づいた避けられない「箱庭の死」そのものです。社会の周縁に作られたかりそめの空間が解散するのとは違い、かつて間違いなく日本の発展の中心として熱狂を生んだ巨大なコミュニティが、丸ごと廃墟へと変わっていく圧倒的な喪失感がここにはあります。

まとめ:リアルタイムと再放送が出会った、箱庭の異なる輝き

批評の世界ではよく、現実の中に非現実的な要素が当たり前のように混ざり込む表現を「マジックリアリズム」と呼びます。AIなら、これらの作品をその一言で分類して終わらせてしまうかもしれません。しかし、実際に画面を通してこれらのドラマを見続けた者として振り返ると、そこには単なるファンタジーの装飾や記号の当てはめではない、作り手たちの切実な意図が見えてきます。

『探偵さん』の寂れた温泉街に現れる地底人や温泉のお湯の声、『季節のない街』のリアルな被災地の中に平然と登場する擬人化した猫、そして『もしがく』が千葉県茂原市に巨大なオープンセットを建ててまで作り上げた演劇的な虚構空間。これらはいずれも、現実社会の厳しいルールや常識から登場人物たちを守るための「防壁」であり、救いとして機能しています。社会の主流から取り残され、いずれ消え去ることが決まっている架空の箱庭だからこそ、現実の窮屈な縛りをはねのけ、非日常や虚構を日常として包み込むカオスな包容力が必要だったわけです。私たちはその現実から浮き上がった優しいユートピアの時間を、リアルタイムの放送を通じて共に呼吸していました。

一方で、『海に眠るダイヤモンド』には、そうした現実を覆すようなファンタジーは介入しません。なぜなら、海に囲まれた端島という物理的な密室自体が、すでに極限の箱庭として完成していたからです。そこでは非現実の力を借りずとも、死と隣り合わせの過酷な環境下で生きる島民たちの間に、極めて濃密な熱狂と絆のドラマが現実として燃え上がっていました。さらに現代パートと過去パートを交錯させることで、失われた箱庭の記憶を現代に手渡すという、地続きの歴史が壮大なスケールで描かれています。

偶然にも異なるタイミングで出会ったこれらの作品は、一方は「社会から外れた場所で、現実を忘れるために虚構を混ぜ合わせたアジール」であり、もう一方は「かつて日本の中心で熱狂を生み、歴史の波に飲まれていった実在の炭鉱島」という違いがあります。

史実に基づく『海に眠るダイヤモンド』のみ、歴史的必然として、端島という舞台の歴史は一旦区切りが付けられるのですが、石炭採掘における栄光の時代においては、その輝きは永遠に続くもののように思われていたわけで、その意味で、最初から「いつか終わる」モラトリアムを描いた3作品とは、逆転現象が起きているのも面白い点だなと思います。

しかし、物理的な空間が取り壊されたり、あるいは水没して廃墟になったりしたとしても、そこで人々が肩を寄せ合って生み出した圧倒的なエネルギーや思い出は、観終わった私たちの心の中に確かに残り続けます。始まりがあり、必ず終わりが来る限定されたパッケージだからこそ、その最後の瞬間に向けて燃え上がる人々の生き様がいっそう美しく輝く。それを見届ける切なさと深い余韻こそが、これら毛色の異なる箱庭ドラマたちが私たちに与えてくれる、共通の真髄であると言えます。

蛇足ながら、今回取り上げた4作品に限らず、学園ドラマや職場(お仕事)ドラマ、あるいはシェアハウスものなど、日本のテレビドラマの多くは限定された空間を描く「箱庭ドラマ」の性質を持っていると言えます。そのあたりの話は、また改めて。

作・千早亭小倉

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