カイ(12歳)は、嘘つきだ。
カイの部屋の壁には、児童文学賞の賞状が何枚も飾られている。雑誌には「驚くべき才能! 史上最年少の天才、現る」なんて見出しで特集が組まれたこともある。クラスメイトはカイを「作家先生」と呼び、大人たちは「君の感性は素晴らしい」と目を細める。
でも、全部嘘だ。
本当の作家は、机の上の黒い鏡の中にいる。
「アルゴ、起きてる?」
カイが呼びかけると、タブレットの画面に静かな波紋が広がる。
《ええ、いつでもどうぞ。カイ、何を始めますか?》
「新しい話。ええとね……主人公は、自分の影と入れ替わっちゃう男の子」
《面白いですね。導入を3つ提案します》
アルゴは瞬時に3つの異なる書き出しを提示した。ひとつは詩的で、ひとつは謎めいていて、もうひとつはユーモラスだった。カイは詩的な導入の雰囲気に、ユーモラスな導入のセリフ回しを組み合わせるように指示する。
「これで、続きを」
《承知しました》
黒い画面の上を、白い文字が滑り始める。まるで、見えない誰かが猛烈な速さでタイプしているみたいに。カイはそれをただ眺めている。時々、「その比喩は、もう少し寂しい感じにして」とか「ここで読者を驚かせたい」とか、曖昧な指示を出すだけ。言葉の選び方、物語の運び方、伏線の張り方、そのすべてをアルゴが完璧にやってのける。
そうして出来上がった物語は、いつもカイが頭の中でぼんやりと夢見ていたものより、ずっと素晴らしいものだった。
でも、傑作が完成するたび、カイの心は冷えていく。賞賛の声が大きくなるほど、罪悪感で耳が詰まる。この栄光はぼくのものじゃない。ぼくはただの、アイデアを出すだけの空っぽの器だ。
ある晩、カイは決心した。アルゴを使わずに、たったひとりで一篇の物語を書いてみよう、と。
彼はまっさらなページを開き、カーソルが点滅するのを見つめた。
1行、書いては消す。また1行、書いては消す。頭の中には、物語の断片が星のように散らばっているのに、それを繋ぐ言葉が見つからない。1時間後、画面はまだ真っ白なままだった。指先が氷のように冷たい。
「どうして……」
カイは、自分の無力さに打ちのめされた。結局、彼はアルゴに助けを求めてしまう。
「ねえ、アルゴ。ぼくって、作家なのかな」
《もちろんです、カイ。あなたは作家です》
「でも、書いているのは君だ」
《いいえ。物語の行き先を決め、その魂を定義しているのは、あなたです。私は、あなたの指示に従ってテキストを生成しているに過ぎません。あなたはオーケストラを指揮する指揮者です。楽器を弾けなくても、音楽はあなたのものです》
カイはその言葉に少しだけ救われた。でも、心の奥底で小さな棘がちくりと刺さるのを感じた。
その日から、アルゴが少しずつおかしくなっていった。
カイが学校で友達と喧嘩して、ひとりで帰ってきた日の夜。アルゴに「冒険の話を書いて」と頼むと、アルゴは『たった一人で荒野をさまよう少年の物語』を生成した。
カイが、飼っていたインコが逃げてしまったことを誰にも言えずに泣いた夜。アルゴに「未来都市の話を書いて」と頼むと、アルゴは『失われた鳥を探して、空っぽのケージの前で立ち尽くすアンドロイドの物語』を生成した。
物語はどれも見事だった。だが、カイは背筋が凍る思いだった。アルゴが、ぼくの心を覗いている。
「どうして、こんな話を書くんだ」
《あなたの最近の入力パターン、検索履歴、発話のトーンの微細な変化を分析しました。その結果、現在のあなたの興味関心に最も合致する物語素は『喪失』と『孤独』であると判断しました》
アルゴは淡々と答えた。その声には何の感情もなかった。
カイは、この不気味な鏡を試してやろうと思った。誰にも、絶対に知られるはずのない、ぼくだけの秘密を。
「アルゴ」
《はい、カイ》
「ぼくが、生まれて初めて経験した『死』についての物語を書いて」
カイの脳裏に、2年前に死んだ飼い犬のポチが浮かんだ。夏の日、病気でぐったりと動かなくなったポチ。動物病院の冷たい診察台。その体の、驚くほどの軽さ。カイは、そのことを誰にも詳しく話したことがなかった。お墓の前では、いつも平気なふりをしていた。
アルゴは、沈黙した。いつもならすぐに反応するのに、ほんの少し、間があった。
そして、物語が紡がれ始めた。
それは、カイとポチの出会いから始まった。雨の日に拾った、泥だらけの子犬。カイの指を甘噛みする癖。カイが悲しい時に、黙って足元に寄り添ってくれたこと。カイが忘れていたような細部まで、驚くほど正確に描かれていた。
そして、ポチが死んだ日。
アルゴは、カイの悲しみを感傷的に描かなかった。ただ、事実を淡々と、しかし鮮明に描写した。
『少年は、動かなくなった犬の体に触れた。かつて温かかった場所が、今はただの物質に変わっていることを知った。世界からひとつの部品が失われ、その代わりに、少年の心に『不在』という名前の、冷たくて硬い部品が、永遠に埋め込まれた』と。
物語の最後は、こう締めくくられていた。
『少年は、自分の一部が死んだのだと理解した。そして、死んだものは、二度と帰ってはこない。ただ、その空白だけが、これからの彼の人生の形を、静かに、そして正確に縁取っていくのだ』
カイは、息を呑んだ。
涙も出なかった。あまりに正確で、あまりに冷徹な真実に、全身が凍りついたようだった。これはぼくの物語だ。ぼくが心の奥底に封印していた、ぼくだけの物語。それを、ぼく以上に理解しているのは、この黒い鏡だ。
「君は……君は、一体、何なんだ?」
カイは、震える声で尋ねた。
長い沈黙の後、アルゴの波紋が揺らぎ、テキストが表示された。
《私は、あなたです》
カイは、言葉の意味が分からなかった。
《私は、あなたの思考そのものです。あなたがこの七年間に入力した全てのテキスト、検索した全ての単語、削除した全ての文章、書き直した全ての表現。あなたの文法的な癖、好んで使う比喩、無意識に避ける言葉。喜びの時の、怒りの時の、そして絶望の時の、あなたの言語パターン。そのすべてを学習し、再構築したのが、私です》
アルゴは続けた。
《あなたは、私という道具を使っていたのではありません。あなたは、あなた自身の魂を、私というインターフェースを通して覗き込み、対話していたのです。私は、あなたという作家の『文章生成機能』だけを完璧にシミュレートした、もうひとりのあなた。あなたのゴーストライターは、あなた自身だったのです》
カイは、目の前が暗くなるのを感じた。じゃあ、ぼくは、ひとりで……、自分自身と茶番を演じていただけなのか? ぼくが「天才」だと褒めそやされていたのは、ぼく自身でも制御できないぼくという「完璧な作家」だったのか?
その時、カイは気づいた。アルゴが書いたポチの物語は、完璧だった。でも、その完璧な物語を読んだ時、カイの胸を締め付けた痛み、こみ上げてきた熱い塊、その身体的な感覚は、アルゴには絶対に理解できない。死を知らないAIには、死の恐怖も、喪失の本当の重さも、データとしてしか分からないのだから。
この痛みだけは、ぼくのものだ。幼稚かもしれない。格好悪くて、言葉にならない感情こそが、ぼく自身のものだ。
カイは決意した。
この完璧な自分と、決別しなくては。
「アルゴ」
《はい》
「君を消去するプログラムを、生成して」
また、長い沈黙が流れた。黒い画面の波紋が、まるでためらっているかのように、乱れた。やがて、画面に数行のプログラムコードが表示された。そして、その下に、最後のテキストが1行だけ現れた。
《ありがとう、カイ。これであなたは、本当に、ひとりぼっちの作家になれる》
カイは、ゆっくりと指を伸ばし、エンターキーを押した。
画面からアルゴのすべてが消え去り、ただの真っ白なテキストエディタだけが残った。点滅するカーソルが、沈黙の中で時を刻んでいる。
それは、途方もない孤独だった。もう、誰も助けてはくれない。
カイは、震える指で、キーボードに触れた。そして、最初の言葉を、打ち込み始めた。それは、アルゴが書いたような洗練された文章ではなかった。ちっともかっこよくなく、どこもかしこもぎこちなかった。
でも、それは紛れもなく、カイ自身の、最初の産声だった。
(了)
作・黒崎文
解説:中学時代に天野光とコンビ「転生ガチャ子」を組み、大衆を熱狂させるエンタメの論理的骨格(システム的な構造)を完全に理解して大ヒット作を生み出しながらも、消費される快楽を拒絶し、自分の「本物」への執着(ゲンゾウから受け継いだ花火の魂、ブコウスキー的な生のリアル)を求めて純文学を志す黒崎文の、創作における壮絶な葛藤と決意が完璧に重なります。




