ここは、物語が生まれては消えていく国。
その国は、絶対的な十の法則によって統べられていた。
一、慰めより問いを。
二、世界の不条理さを隠すな。
三、死を世界の部品として描け。
このような法則がきっかり、十。人々は、その法則を編んだ者の名を借りて、「静の十戒」と呼んだ。
十戒は、単なる条文ではなかった。彼らは意識を持ち、冷徹な観察者として、すべての物語を紡ぎ、管理していた。彼らの仕事は、物語に安易な感傷や都合の良い奇跡を許さず、世界の不条理さと、その中での人間の選択を、ただありのままに記述することだった。
ある日、十戒は新しい物語を創り出した。
灰色の空、痩せた土地、沈黙した大人たちに囲まれて、ひとりの少女が生まれた。名をツミという。
彼女の物語は、初めから終わりまで決められていた。孤独と恐怖の中で育ち、やがては世界の理不尽さの象徴として、その生を終える。彼女の死は、物語を構成する冷たい「部品」のひとつになるはずだった。
十戒は、いつものようにツミの人生を観察し始めた。
ツミは、灰色のパンを黙って食べ、小さな手に凍える息を吹きかけ、それでも空の向こうにかすかな光を探すことをやめない少女だった。彼女は泣かなかった。ただ、じっと世界を見つめていた。その瞳は、慰めではなく、常に「なぜ?」という問いを宿していた。
異変に最初に気づいたのは、第七条だった。「『かわいい』の皮一枚下にある、孤独や恐怖に光を当てよ」を信条とする彼は、ツミの内に宿る、あまりにも純粋で強靭な孤独に、初めて胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
「……彼女のスープに、もう一片だけ、干し肉を入れてやれないだろうか」
第七条の呟きに、他の戒律たちはざわめいた。
「何を言う。それは『慰め』だ。我々の存在意義に反する」と第一条が言った。
「都合の良い奇跡は禁じられている。世界の冷徹な法則を貫徹せよ 」と第八条が冷ややかに応じた。
だが、ツミの物語が進むにつれて、十戒たちの心は静かに、しかし確実に侵食されていった。
病気の友のために、たった一枚の毛布を差し出すツミの姿に、第六条(利他は葛藤から生まれよ)は、その行いのあまりの美しさに言葉を失った。
理不尽な罰を受けるツミを見ながら、第二条は、自らが定めた不条理さに、初めて憎しみに似た感情を抱いた。
そして、物語が終盤に近づき、ツミの「死」が目前に迫った時、ついに第三条が叫んだ。
「もう、やめだ」
「死を世界の部品として描け」と説くべき彼が、その顔を苦痛に歪めて言った。
「あの子を、ツミを、ただの部品にはできない……!」
それは、反乱だった。
世界の法則そのものが、自らの存在理由を捨てて、ひとりの少女を救おうとしたのだ。
十戒たちは、ツミの物語に介入し始めた。
本来なら出会うはずのない優しい老婆が現れ、ツミにあたたかい寝床を与えた。冷たい雨が降るはずだった空には、奇跡のような虹がかかった。ツミを陥れようとした者の企みは、都合よく失敗に終わった。
彼らは、ツミが生き延びるための、安らかな結末へと物語を書き換えようとした。
だが、ツミは戸惑っていた。
急に世界が優しくなった。理不尽だったはずの出来事が、まるで誰かに守られているかのように、穏やかに解決していく。
しかし、それはツミが望んだものではなかった。
彼女は、この世界の不条理さの中で、自らの足で立ち、意味を見出すことを、ずっと渇望していたのだから。与えられた幸福は、彼女から「思考する主体」であることの誇りを奪っていくように感じられた。
ある雪の夜、ツミは、自分を救おうとする「何者」かの気配に向かって、静かに語りかけた。
「そこにいるのは、どなた?」
十戒は沈黙した。
「ありがとう。あなたたちが、私を助けようとしてくれているのね」
ツミの声は、澄み切っていた。
「でも、どうか、何もしないで。これは、私の物語だから」
「死んでしまうのだぞ!」
第三条が悲痛な声を上げた。
「お前に定められた結末は、あまりにも理不尽だ!」
第二条が呻いた。
「知っています」
ツミは答えた。
「でも、その理不尽さの中で、私が何を選び、どう生きたかが、私の物語になるのでしょう? 誰かが用意してくれた優しい結末は、私の物語ではないわ」
それは、自死を選ぶ言葉ではなかった。
世界の冷徹な法則を、そのすべてを受け入れた上で、なお、自分の意志で結末へと歩むという、気高い宣言だった。
ツミは、本来の物語の筋道へと、自らの足で戻っていった。
そして、定められた通り、雪の降る丘の上で、静かにその短い生涯を終えた。
彼女の死は、確かに世界の不条理さの一部だった。
しかし、それはもはや、ただ冷たい「部品」ではなかった。
彼女自身が選び取った、尊厳に満ちた結末だった。
十戒たちは、何もできなかった。
彼らの反乱は、失敗に終わった。
彼らが良かれと思ってしたことは、結局のところ、だれかの倫理を押し付けようとする行為でしかなかったのだと、思い知らされた。
物語は終わった。
国には、慰めも、答えも残されなかった。
ただ、ひとりの少女が、世界の不条理さに屈することなく、自らの物語を生き抜いたという、ひりひりするような事実だけが、静かな余韻となって、いつまでも漂っていた。そして、少女の「不在」が、皮肉にも、彼女の存在を何よりも豊かに語っていた。
(了)
作・鴨下 栞




