
深夜の編集プロダクション「ぽんちょ」。
コピー機の微かな駆動音だけが響くオフィスで、学生アルバイトの恋流波陽は、一人でゲラの山と格闘していた。
「……終わらない」
小さくため息をつき、首を回した時だった。
「お疲れ様、はるくん」
給湯室の暗がりから、パートの中野小春が現れた。深夜の残業にもかかわらず、そのふっくらとした優しい顔立ちは、少しの疲れも感じさせない。
「あ、中野さん。まだ残ってたんですか」
「ええ。キリのいいところまでやっちゃおうと思って」
小春は、はるの隣のデスクに腰掛け、マグカップを両手で包み込んだ。そして、突然、真剣な眼差しではるを見つめた。
「ねぇ、はるくん。もし、人間が猿だったら、どんな悩みがあると思う?」
「……えっ、猿ですか?」
はるはキーボードを叩く手を止めた。普通、こういう時は「猫だったら」とかじゃないのか。しかし、中野さんはいつもこうだ。周囲からは至って平凡で穏やかな常識人と思われているのに、はるの前でだけ、常識外れの言葉を発する。
「うーん……毛繕いの時間が足りないとか、ボス猿のパワハラとかですかね」
ここあん大学の学生らしく、少し理屈っぽく返してみる。小春は「ふふっ」と笑い、目をきれいな三日月型に細め、口角を大きく上げた。
「そうね。でも、一番の悩みはきっと、『進化しちゃったことへの後悔』じゃないかしら」 「進化への後悔?」
「そう。知恵を持ったせいで、こんな深夜までゲラと睨めっこしなきゃいけないんだもの。何も考えず、木の上でただ揺れていればよかったのにって」
小春の言葉に、はるは少しドキッとした。氷上静との平均台を駆け抜けるような恋とも呼べぬ曖昧な関係に悩み、色々なことを考えすぎてすり減っていた自分の心を、見透かされたような気がしたからだ。
「……確かに、そうかもしれませんね」
はるが自嘲気味に呟くと、小春は悪戯っぽく口角を上げた。
「だからね、私がはるくんをペットにしてあげる。私が飼い主の猿。はるくんはペットの人間」
「え、小春さんが猿で人間のぼくのご主人様? それって、いろいろ逆じゃないですか?」
「毎日、美味しいバナナをあげるから、君は何も考えずに木の上でただ揺れていればいいのよ」
それは、あまりにも荒唐無稽で、けれど――圧倒的に優しい言葉だった。
はるは思わず吹き出した。張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むのを感じる。
「じゃあ、バナナはシュガースポットが出てるやつでお願いします」
「ふふ、贅沢なペットだ」
マグカップから立ち上る湯気の向こうで、小春が無邪気に笑う。
冷たい氷山を目指して凍えていたはるの心は、この波風の立たない「小春凪」の中で、確かな安らぎを感じていた。
(了)
作・千早亭小倉
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