移動図書館日記(110)遠野編

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

夜が明けるまで話し続けていた。話は方々へ飛んだ。その瞬間は切実な意味を持っていたはずの言葉も、朝日の中で振り返ってみれば、形のないとりとめもない断片だったように思う。千夏さんは明け方、吸い込まれるように隣の部屋で眠りについた。

私は寝不足の頭のまま台所に立ち、浅い微睡みの中にいた。その時だ。玄関先で「どん」という、重いものが置かれる音が響いた。続いて、静かに遠ざかっていく足音。動物か何かかと思ったらしい千夏が、目を丸くして部屋から飛び出してきた。

私はのんびりと結露した窓を拭き、外を指差した。軒先には蓋の開いた段ボール箱があり、朝露を孕んだレタスがいくつも詰まっていた。

「近所のおばあさんよ。ほら、話したでしょう、峠を歩いて越えて夏祭りに行ったあの人」

私がそう告げると、千夏は無言で届けられた温かなお裾分けに、深く感心したような表情を見せた。

「文さん、壁を作って、地元に溶け込めていない気がする、って言ってませんでした?」

千夏さんはおかしそうに笑い、静かにレタスを見つめた。

「どうだろうね」

私は、それだけ返した。初めての時は、もっと唐突だったのだ。玄関先に白菜が一つ、ただそこにあった。ラグビーのプレースキッカーが、魂を込めて一点にボールを据え置く、あの瞬間の佇まいで。何にもくるまれていない裸の白菜が一つ、玄関先に立っていた。転がることも許さないような、その断固とした無言の存在感こそが、この土地の挨拶なのだと悟ったのは、もう少し後になってからだった。

朝食は、近所で分けてもらった暮坪かぶをすりおろし、蕎麦に添えた。仕事でもないのに、二人して完徹に近い状態で、頭が少し重い。寝不足の身体に、かぶの鮮烈な辛みが突き刺さる。鼻に抜ける刺激が、沈殿していた眠気を少しだけ払い落としてくれた。この辛さがなければ、今日を始めるための楔は打ち込めなかっただろう。

食後、千夏さんが壁に貼られた一枚の写真を見つけた。ボランティアとして駆け回っていた頃の私。日焼けで黒いというより、もはや「真っ赤」で、今の私とは別人のように無我夢中で現場に立っていた姿。千夏は何も言わなかったが、私が過去に置いてきた熱量を、その端正な横顔で静かに受け取っているようだった。

今日は車の運転はやめておこうと思った。朝まで話し込んだせいで注意力が散漫になっている。この状態でハンドルを握るのは、この土地にも、これまでの自分にも無責任だ。

「遠野駅まで電車に乗って、町なかを回ってみない? 図書館と博物館を覗いてみましょう。ここにも移動図書館があるのよ」

私の提案に、千夏も、異議なしと頷いた。

鱒沢の駅まで歩き、電車に揺られて遠野駅へ。図書館を後にし、駅近くのスーパーの裏手にある桜の木を見に行った。千夏と話したばかりの、あの木だ。

見上げれば、蕾はまだ固く閉じている。けれどその皮膜の内側には、はち切れんばかりの春の予感が凝縮されているはずだ。満開の華やかさよりも、この「始まろうとする静かな予兆」のほうが、今の私たちには大切かもしれない。

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

中野文

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

ものがたり
higashiboctokをフォローする
タイトルとURLをコピーしました