数分後、部室のドアが億劫そうに開かれた。開くのが「面倒くさい」とでも言うように。そこに立っていたのは、僕の想像をあらゆる意味で裏切る人物だった。
よれよれのジャージ。鳥の巣のようにボサボサの黒髪。美しい造形をしているはずなのに、その全てを台無しにするかのような、気の抜けた表情。実際に見たことはないが、締め切り前の漫画家ってこんな様子? という感じの風体をした、おそらく若い、おそらく女性。
「……ハー。で、何さ、クロちゃん? 私、これからネトフリでアルゼンチンのドラマの最終回、見なきゃいけないんだけど」
それはアルゼンチンにだって、サッカー番組だけでなくドラマだってあるのだろうが、それがいったいどういうものなのか僕にはまったく想像できなかった。だが、この「めんどくさい」を絵に掻いた物体との距離が近づいたことで、この、あくびが止まない生き物がどうやらうちの学校の女性教師であろうという結論に達した。
彼女を呼び出したのは、黒崎部長だ。となれば、この女が、さっき電話で言ってた顧問か? 僕の脳内データベースに登録されている、全教師のデータと一致しない。新任か? いや、それにしては、この学校に馴染みすぎている。まるで、最初からここに生えていたキノコのようだ。
「リノリウム……」
堂島が古代の生物でも見るように、この推定女教師に視線を送る。
「国語科担当、文芸部顧問の月読リノ。あだなは『リノリウムの床』。理由は察しろ」
僕のけげんそうな顔に気づいたのか、堂島がていねいに解説をしてくれた。
ツクヨム……ああ、「月読」か。よれたジャージに、太古の神様、そこに教室の床材名と、いきなり与えられた情報の羅列はあまりに脈絡がなく、一貫性のある人物像として再構築することが不可能だった。
黒崎部長は何がしたいのか。
「ジジョーは聞いた。クロちゃんが家のジジョーでいなくなって、ドージマたちが文化祭で部誌を出したい、と。はいはい、セーシュン、セーシュン」
リノリウムは、さも面倒くさそうに手を振りながら、僕と天野さんが書き殴った原稿の束を、ひょいと掴んだ。
「フーン……『世界の終焉から五秒前の景色』ネー。はいはい、チューニビョー、チューニビョー」
「……っ!」
他人の作品を、あまりにも無遠慮に、そして的確にこき下ろす。そのスタイルは、黒崎部長と少し似ているかもしれない。だが、部長の批評には文学への愛がある。この女には、それがない。あるのは面倒くさいという気持ちが巻きついた、カタカナと長音だけだ。
僕と堂島が、月読リノという奇妙な女教師・推定顧問のペースに完全に飲まれている間も、天野さんは、ただ黙って、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように、じっと椅子に座っていた。その大きな瞳が、何を考えているのか、僕には全く読み取ることができない。
リノリウムは、パラパラとさらに数枚ページをめくった。その、気の抜けた目が、ほんの一瞬、僕と天野さんの「翻訳作業」の跡が記されたページで、ぴたり、と止まった。
「へー……ヘー」
カタカナの「ヘー」がひらがなの「へー」に。ほんの僅か。だが、確かに、彼女の目の色が変わったのを、僕は見逃さなかった。それは、道端で光る石ころを見つけた時のような、些細な、しかし純粋な好奇心の色だった。
「マー、イーヤ、いいや。で、まず必要なのは事務手続きだっけ? 印刷屋をリストアップして、予算申請して、委員会に書類出す、とか、そーいう面倒くさいやつね。はい、これ。去年の申請書類のフォーマットとか、印刷屋のリストとか、参考になりそうなデータ一式。あとは、よしなにやっといて」
彼女は、どこからともなく取り出したUSBメモリをテーブルの上に放ると、もう用は済んだとばかりに、再び大きめのあくびをした。
その気だるげな視線が、ふと、今まで一言も発さずに座っているだけの、天野さんを捉えた。ほんの一瞬、リノリウムの眠たげな目が、何かを値踏みするように細められる。黒崎から話は聞いている、とでも言いたげな、共犯者のような視線。しかし、それも束の間、彼女は興味を失ったように、再び大きく口を開けてあくびをした。
「じゃ、そういうことで。健闘を祈る。グッドラック、私の単位」
嵐のように現れ、そして去っていく。残された僕たちは、言葉もなかった。
(私の単位……? 先生に、単位があるのか?)
僕の思考が停止していると、背後から呆れたような声がした。
「気にするな、神崎。リノリウムの中では、この世界のあらゆる事象が、独自の単位取得システムで運用されているという設定らしい。文化祭で部誌を無事発行できれば、顧問としての『面倒くさいことやり遂げた単位』が取得できる、とかいう馬鹿げたルールだ」
声の主は、堂島だった。
黒崎部長は、そんなリノリウム、いや月読リノ先生の背中を、やれやれという顔で見送ると、自分の荷物を静かにまとめた。
もう、本当に行ってしまうのだ。僕たちの、絶対的な女王が。
彼女は、ドアの前で一度だけ、足を止めた。
そして、僕と堂島を一瞥した後、最後に、天野さんを見た。
「……あとは任せたぞ、天野」
それは、静かで、しかし、有無を言わせぬ響きを持った、最後の言葉だった。
(第30話へ続く)



