
椎名町三丁目の雑居ビルにある、編集プロダクション「ぽんちょ」。昨日からの徹夜作業が、ようやくトンネルを抜けたところだった。くたびれたように鳴るコピー機の駆動音を割って、終わりが見えてやけくそ気味にキーボードを叩く音が、朝のオフィスに響いている。フロアには、どこかハイな空気が漂っていた。
手持ちの作業が一段落したアルバイトの恋流波陽(ハル)は、狭い給湯室で紙コップにインスタントコーヒーの粉を入れようとしていた。 背後で、スリッパの足音が止まった。
「お疲れ様、ハルくん」
パートの中野小春だった。パステルカラーのブラウスの袖を少し捲り、自分が使ったマグカップを両手で持っている。激務のオフィスにあって、彼女の周りだけはいつも、洗い立てのリネンのような、こざっぱりとした空気が漂っていた。
小春はシンクの横の戸棚を開けると、奥からぽってりとした少し不格好な陶器のカップを取り出した。
「紙コップもいいけれど、これ、使う? なんだかハルくんに似合うなと思って」
「え、いいんですか? ありがとうございます」
ハルがカップを受け取ると、小春は並んでシンクに立ち、スポンジを丁寧に泡立てながら、ハルの方へ顔を向けた。
「ハルくんって、顔を洗う音が変よね」
カップにお湯を注ごうとしていたハルは、思わずむせそうになった。
「えっ!? なんですか急に」
「今朝、洗面所で洗ってたじゃない。普通の人は『バシャバシャ』なのに、ハルくんのは『プシュシュシュシュシュシュ』って。絵本に出てくる機関車みたいな音だったよ」
「プシュシュシュシュって……そんな音出してないですよ!」
「出してたよ」
「そうですか。聞こえたんですね、中野さんには、プシュシュシュシュって」
「そう。プシュシュシュシュって」
小春は楽しそうに目を三日月型に細め、口角を大きく上げる。
「あとね、ハルくん、くしゃみの音も変よね」
「くしゃみ!?」
「そう。『ハックション』じゃなくて、『ヘッ、クシュン、ふぃゅっ』って、最後になぜか風の抜けるような高い音が鳴るの。小鳥みたいで可愛いけど」
「可愛いって言われても……全然嬉しくないです」
恥ずかしさでタジタジになるハルをよそに、小春の観察はまだ止まらない。
「それに、ハルくん、傘の差し方も変」
「傘の差し方まで見てるんですか!?」
「いつも右に傾けて差してるから、雨の日は必ず左肩だけびしょ濡れになってるじゃない。わざとじゃないよね」
「わざとのわけないです。っていうか、いま、初めて知りました」
「不器用なんだから、風邪ひいちゃうよ」
自分の輪郭を縁取るような的確な指摘の連続に、ハルは言葉を失った。冷たい氷山を求めて遭難を繰り返していた彼にとって、自分の無防備な生活のノイズをここまで正確に、そして(おそらくだが)肯定的に観測されることは、未知の体験だった。
言われっぱなしへの反発心と、作業終わりのハイな気分から、ハルも反撃に出る。
「そ、そういう中野さんだって……!」
「あら、私がどうしたの?」
小春がスポンジを置き、小首をかしげる。水滴のついた指先が、微かに揺れた。
ハルは頭をフル回転させたが、いつも穏やかで、すべてを受け入れる大樹のような中野さんの「ほころび」など思いつかない。ええい、ままよ。ハルは口から出まかせを放った。
「くしゃみで言えば、中野さんも、家に帰って靴下をぬぐとくしゃみしそうですよね!」
その瞬間、小春の動作がピタリと止まった。 ゆっくりと目を丸くしてハルを見つめ、やがて濡れた両手で口元を覆う。
「えっ!」
「え?」
「な、なんでわかったの!?」
今度はハルが驚く番だった。
「ええっ!? いや、あの……もしかして図星ですか!?」
「図星もなにも……私、寝る時は靴下を履いて寝るのね。でも、すぐにそれを脱いじゃうの。で、靴下を脱いだ途端、『クシュッ』って……」
くしゃみを実演してみせる小春の無防備な可愛らしさに、ハルは思わず目を奪われた。
「ね、くしゃみが出ちゃうの! 誰にも言ったことないのに!」
驚きで声を上ずらせる小春の顔を見て、ハルはたまらず吹き出した。波風の立たない器が見せた、思いがけない小さなヒビ割れ。
「あははは! 当てずっぽうだったのに、当たっちゃった!」
「当てずっぽう? ほんとは見てたんじゃないの?」
「み、見てたって、見てるわけないじゃないですか」
二人は、どちらからともなく声を上げて笑い出した。給湯室の狭い空間に、明るい笑い声が反響した。
「……ちょっと、何騒いでんの?」
入り口に、分厚いゲラの束を抱えた社員の鶴亀昌子が立っていた。目の下には見事なクマがあるが、肌はなぜか艶々と潤っている。
「あ、鶴亀さん。すみません!」
ハルが慌てて姿勢を正す。鶴亀は無表情のまま、呆れたように小さく息を吐いた。
「相変わらず、迷子の深海魚と、それを持て余さない底なしの水槽って構図ね。見てるこっちが息苦しくなるわ」
「し、深海魚って、どこでその呼び名を! 違います。別にそんなんじゃ……!」
ハルが耳まで真っ赤にして狼狽するが、小春は少しも動じることなく、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ。お魚さん、お水が足りないみたいだから、少しだけ足してあげていたんです」
「中野さんまで何言ってるんですか!」
ハルはさらに言葉を詰まらせる。 氷山を探してすり減っていたハルの胸の奥に、激務の疲れも忘れるような、温かい時間がゆっくりと満ちていった。
(了)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)





