【登場人物】
酔酔亭 馬楼:落語家。アパート「メゾン干物箱」の住人。こだわりが強くお調子者。
糠森 ひな:代弾きピアニスト。音には厳しいが、目的を達成するとあっさり満足する。
【場面設定】
築40年のアパート「メゾン干物箱」、馬楼の六畳一間の部屋。

馬楼:よし、と。
(馬楼、百均で買った背の高い透明マグカップにやかんの湯を注ぐ。注ぎ終わりに、カップが震え、キンッ、ときれいな高い音が鳴る)
馬楼:え、なんだ今の音! おい、ひな、聞いたか!
(ひなは座布団に座り、イヤホンをして楽譜を見ている)
馬楼:なんだよ、おひな様は、聞いてない、と。
(ひな、馬楼が自分に向かって何か言っているので、イヤホンを外す)
ひな:なんですか?
馬楼:鐘、鐘だよ。
ひな:買い物ですか? 馬楼さん、昨日、ギャラが入ったって喜んでたじゃないですか。私、今日はあんまり持ってきてないですよ。
馬楼:人をたかりみたいに言うなよ。違うよ。鐘だよ、国宝。
ひな:馬楼さんの、お寺の話ですか?
馬楼:違うって、の。国宝級のいい音が鳴るんだよ。頼むから聞いてくれ。
(馬楼、カップに湯を注ぐ真似をする)
ひな:え?(ジェスチャーゲームみたいなやり取り)馬楼さんが、カップに、お湯を、注ぐと、鳴る。分かりました、聞きます。どうぞ。
(ひなが手で、馬楼に、先を促す。馬楼、息を呑んで、やかんを傾け、お湯を注ぎ足す。その瞬間、ひなのスマホから陽気な通知音がピロンと鳴る)
馬楼:被った。ドンピシャで被った。
ひな:すみません。(スマホを確認する)通販のタイムセールの通知でした。で、鳴りました?
馬楼:鳴ったよ! 多分。ひなのスマホの音と重なったから、よくわからなかった。切っとけよ、通知。
ひな:(スマホを操作する)はい。大丈夫です。(再び、手で、先を促す)
馬楼:よし。いいな、いいな? 心して聞けよ。国宝の鐘!
(部屋の中が静まり返る。廊下を誰かが歩く音がする。それが止む。馬楼が慎重にやかんを傾け、お湯を注ぎ込む。カップがわずかに震えたように見えるが、弱々しい音が鳴ったか鳴らないか微妙)
馬楼:ちっ。注ぎ足しじゃ、だめなのかな。
ひな:鳴りませんね。じゃ、また鳴ったら教えてください。(イヤホンをさそうとする)
馬楼:待て、待って。(それを制して)それじゃ、鳴る、教える、鳴らないの繰り返しだろう?
ひな:え、そうですか?
馬楼:普通はそうならない。そうならないが、俺達の場合は、絶対にそうなる。絶対に。
ひな:あははは、そうですね。なりますね。いいですよ。付き合います。でも、本当にそんなにいい音だったんですか?
馬楼:疑うんだな。絶対に聞かせてやる! 今、聞かせてやる。あの奇跡の音を!
(馬楼がやかんを構えるが、カップにはすでにお湯が縁ギリギリまで入っている)
馬楼:うわ、もうお湯が入らねえ。
(馬楼が試しに1滴だけ湯を落とす。何も鳴らない)
ひな:やっぱり注ぎ足しじゃだめなんですね。勢いも大事なのかも。
馬楼:うるさい。専門家でもないくせに。これは、俺の領分だ。
ひな:はいはい、そうですね。国宝の鐘を鳴らすのは、馬楼さんの役回りですよ。
馬楼:いやな言い方をするね。お湯を捨てて最初から注ぎ直すぞ! まだ、帰るなよ。
ひな:帰らないですよ。帰ってほしいなら、帰りますけど。
(馬楼、妙に照れて変な顔になる)
馬楼:じゃあ、この湯はいったん捨ててだな。
ひな:待ってください。もったいないですよ。飲むか、カップ麺でも作ったらどうですか?
馬楼:こんな熱湯を一度に飲めるか。よし、カップ麺だ!
(馬楼、やかんを片手に持ったまま、棚のカップ麺に手を伸ばし、机の上に置く。器用に片手で、包装をはがし、ふたを半分開き、かやくを振りかける)
ひな:ほんと器用ですよね。
馬楼:だろ?
ひな:やかんを置いて、両手でやればいいのにとは思いますが。
馬楼:超絶技巧と呼んでくれよ。ひなもやるだろ、こういうの?(ピアノを弾く手つきをする)
ひな:やりませんから。
(馬楼、「はいはい、そうですか?」という顔で、マグカップを傾け、机の上のカップ麺にお湯を注ぎ移す)
馬楼:よし、全部入った!(馬楼、満足気に、空になったマグカップを机の上に置く)待ってろよ、箸、取ってくるからな。(馬楼、腰を上げ、台所へ向かう)
(キンッ! 澄み切った高い音が部屋中に響き渡る)
馬楼:(ひなのほうを振り返る)えっ、鳴った!?
(机の前で、ひながやかんを傾けてマグカップにお湯を注ぎ終えたところ)
ひな:あ、本当だ。すごくいい音。
(ひなが感心した顔で、馬楼にうなずき、最高の笑顔を見せる)
馬楼:(その笑顔の魅力に気圧されながら)なんで、お前が注ぐんだよ!
ひな:やかんにお湯が残っていたので、鳴るかなって思って。注いでみたら、鳴りました。これ、すごいですね。
馬楼:違うって、違う、違う。俺が注いで、お前に聞かせるから意味があるんだよ!
ひな:え、私は満足ですよ。馬楼さん、すごい。
馬楼:全然、すごくないだろ? もう1回だ! やかん、やかん(やかんを持ち上げる)なんだよ、入ってないじゃん。沸かし直しだ!
ひな:ふふ、それなら、今度は白湯にしてください。私が飲みますから。
(幕)
作・千早亭小倉





