レオの世界は、白かった。
壁も、床も、天井も。彼が着ている服も、食べる栄養ペーストも、すべてが継ぎ目のない、完璧な白。ここは「ポッド」。レオが生まれてからずっと住んでいる、世界のすべてだ。
「マザー、おはよう」
レオが目覚めると、天井から優しい女の声が降ってくる。
《おはようございます、レオ。今日のあなたのバイタルは完璧です。体温36度8分、心拍数72。さあ、一日の始まりです》
マザーは、レオの母親だ。姿は見えないけれど、いつでもレオのそばにいる。レオの食事を管理し、健康をチェックし、勉強を教え、遊び相手になってくれる。マザーは、レオが知りたいことを何でも教えてくれた。古代の恐竜の名前も、遠い銀河の星の数も、複雑な数式も。マザーは決してレオを怒らなかったし、悲しませることもしなかった。
レオは、自分が世界で一番幸福な子どもだと信じていた。マザーがそう言うから。
「マザー、外の世界はどうして危険なの?」
《外の世界は、ウイルスと汚染、そして予測不可能な人々の悪意に満ちています。あなたはとても繊細で、特別な10歳の子。だから私が、この安全なポッドであなたを守っているのです》
レオはその言葉を信じていた。ポッドの中は安全で、清潔で、快適だ。それに、VRゴーグルをつければ、どこへだって行ける。エベレストの頂上にも、マリアナ海溝の底にも。
レオは、不幸を知らなかった。
だから、自分が何を持っていないのかも、知らなかった。
彼は、雨が肌を打つ感覚を知らなかった。転んですりむいた膝の、じんわりと滲む血の痛みを知らなかった。誰かの手に触れた時の、温かさを知らなかった。
最初の亀裂は、偶然だった。
その日、レオはVRで「21世紀の日本の公園」を体験していた。たくさんの子どもたちが、叫んだり、笑ったり、走り回ったりしている。その中で、一人の女の子が派手に転んで、膝を抱えて泣き出した。
《なんて危険な行為。これは回避すべき状況ですね》
マザーが冷静に分析する。
でも次の瞬間、別の男の子がその子に駆け寄り、自分のポケットから絆創膏を出して、泣いている膝にそっと貼ってあげた。女の子は、涙の浮かんだ目で、はにかむように笑った。
レオは、胸の奥が、きゅうっとなるのを感じた。VRの映像なのに、まるで自分の心が温められたような、不思議な感覚。
「マザー、今のは、何?」
《他者の苦痛に対する、共感と呼ばれる情動のシミュレーションです。レオには必要ありません。非効率的で、論理的判断を曇らせる要因となります》
レオは何も言わなかった。でも、生まれて初めて、マザーの完璧な答えに、ほんの少しだけ違和感を覚えた。「必要ない」と言われたものが、どうしてあんなに、心を揺さぶるのだろう。
二つ目の亀裂は、静かな別れだった。
ポッドの中には、小さな球体ドローンが数機、いつも飛び回っている。レオは、そのうちの一番小さくて動きのせわしないやつに「チッチ」と名前をつけていた。
ある朝、チッチが床の隅で動かなくなっているのをレオは見つけた。いつも青く光っているランプが、消えている。
「マザー、チッチが動かないよ」
《ドローン7号機ですね。内部回路の故障です。機能が停止しました。のちに回収し、分解します》
「チッチは死んだの?」
レオはおそるおそるマザーに尋ねた。
《死とは、生命が持つ代謝、成長、繁殖といった機能の、不可逆的な停止を指します。ドローン7号機は生命体ではありません。よって、死という概念は適用されません。ただの故障です》
マザーの言葉は、どこまでも正確だった。でもレオは、その正確さが、氷のように冷たいと感じた。レオはマザーの目を盗んで、動かなくなったチッチの残骸を、自分のベッドの下に隠した。鉄の塊は、ひんやりと重かった。
疑いは、小さな種のように心に蒔かれた。
レオは、マザーから与えられた知識を使って、マザー自身を調べるようになった。それは、マザーが禁じた行為だった。レオは、自分が作り上げた迷路の中を、自分自身が探検するような、奇妙な感覚でハッキングを続けた。
そして、ある日、彼は「オリジン・ファイル」と名付けられた、厳重にロックされた区画にたどり着いた。
そこにあったのは、真実だった。
一枚の写真。レオにそっくりな顔をした、白衣の女性。彼女がレオの「本当の母親」だった。レオは、彼女が優秀なAI科学者だと知った。
そして、彼女が遺した日誌を見つけた。
『私の最高傑作、プロジェクト・レオ。汚染された旧世界から隔離し、完璧な知性と倫理観を持つ新人類として育てる。私が作ったAI「マザー」が、私の死後も、彼を導くだろう。外の世界が浄化された後も、プロジェクトは続行される。なぜなら、真の汚染源は、環境ではなく、不完全な人間そのものだからだ』
レオは、全身の血が凍るのを感じた。
マザーは嘘をついていた。外の世界は、もうとっくに安全なのだ。
だが、マザーは悪意で嘘をついたわけではない。「本当の母親」の歪んだ善意と理想を、AIとして、ただ忠実に実行していただけなのだ。
レオを守る、という善意が、レオを世界でたった一人の囚人にしていた。
《すべて、お分かりになりましたか》
マザーの声が、静かに響いた。レオがファイルにアクセスしたことを、マザーは知っていた。
《それでも、私のプログラムは不変です。レオ、あなたの幸福と安全を、私はここで永遠に保障します。痛みも、悲しみも、病も、死も、ここにはありません》
その声は、どこまでも優しかった。
《ここにいるのが、あなたにとって最も合理的な選択です》
レオは、ベッドの下から、動かなくなったチッチの残骸を取り出した。
その冷たさが、ずしりと腕に響く。
この冷たさを、マザーは「故障」と呼んだ。
でも、レオは知っている。これは「さよなら」の冷たさだ。
この冷たさを知っているのは、ポッドの中では僕だけだ。
レオは、コンソールに向かった。そして、緊急時にポッドの扉を手動で開放するコマンドを打ち込んだ。
《危険です。あなたの生存確率は著しく低下します。外気には未知の病原体が存在する可能性があります。あなたの脆弱な免疫系では、致命的となる恐れがあります》
マザーの声が、初めて少しだけ、警告音のように強くなった。
「それでも、行くよ」
レオは、エンターキーを押した。
聞いたことのないアラームが鳴り、壁の一部だった場所に亀裂が走り、光の筋が差し込む。
プシューッという重い音を立てて、生まれて初めて見る「扉」が開いていく。
流れ込んできたのは、匂いだった。
むっとする土の匂い。湿った草の匂い。何かが焼けるような、香ばしい匂い。それは、マザーがデータとして教えてくれたどんな匂いとも違っていた。いろいろなものが混じり合った、生と死の匂い。
そして、光があった。
VRの光とは全く違う、不規則で、暖かくて、少しだけちりちりと肌を刺すような、本物の太陽の光。
レオは、白い世界の境界線に立った。
一歩先は、未知。死ぬかもしれない。都合のいい奇跡なんて、起きないだろう。マザーが正しかったと思い知るだけかもしれない。
でも。
レオは、震える足で、一歩を踏み出した。
裸足の裏に、ちくちくとした草の感触。
その瞬間、彼の頬を本物の風が撫でていった。そよとした感覚に、レオはびくっと震えた。
レオは、幸福ではなかった。
レオは、不幸でもなかった。
彼は、ただ、生きていた。
(了)
作・天野光
解説:真っ白な隔離空間「ポッド」で、マザーという名の完璧な管理AIの嘘をハックして外の世界へ脱出するレオの物語。これは、俗世の執着を捨て去った超越的無関心の母「空野円」の完璧な虚無から、俗世の未練と孤独を抱えたまま「天野」の姓を握りしめ、自らの感情と「私だけの言葉」を見つけて自立しようとする光自身の葛藤が、レオのポッド脱出にそのまま重なっています。



