月だけが毎晩、会いに来てくれる小さな水たまりがありました。
わたしは、水でした。
昼は、空の青や、渡っていく雲の白を映し、風が吹けば、きらきらと笑うようにからだを揺らしました。夜は、まんまるの月を胸に抱いて、しん、と静かな光を宿します。
わたしは、満たされていました。でも、ときどき、不思議な夢を見るのです。
それは、とても静かで、硬くて、冷たい夢。
夢の中のだれかは、動くことができません。ただじっと、凍てつく空の下で、ダイヤモンドのように鋭い光を返すだけ。体の中には、繊細なレース模様がどこまでも広がっています。
怖いはずなのに、なぜかその静けさは安らかで、硬いはずなのに、どこか誇らしいのです。
夢から覚めると、わたしはいつも思います。
「あれは、だれなのだろう。いつか、会えるのかしら」
秋が深まり、森の木々が最後の一葉を落とすころ、空から降りてくる空気が、日に日に鋭くなっていくのを感じました。
水面に遊びにきていた虫たちの姿が見えなくなり、わたしのからだのふちの方から、ゆっくりと動きが鈍くなっていくのを感じます。
ああ、また、あの夢が近づいてくる。
いいえ、夢じゃない。あれは、もうひとりの「わたし」なのだと、なぜか分かりました。
だんだんと、わたしの意識は薄氷のように、向こう側が透けて見えるほど、あやふやになっていきます。
水であったことの記憶が、さらさらと指の間からこぼれていくようです。自由に揺れていたこと、月を胸に抱いていたこと、なにもかも。ただ、懐かしい、という感覚だけを残して。
そして、わたしは、氷になりました。
森は、深い雪に覆われました。
わたしはもう、風に笑うことも、月を映すこともありません。ただひたすらに硬く、強く、冬の厳しさのすべてを受け止めて、輝いていました。
これが、ほんとうのわたしの姿なのだ、と思いました。
ときどき、遠い昔に見ていた夢のことを、ぼんやりと思い出すことがありました。
それは、とても柔らかく、あたたかで、流れる夢。
夢の中のわたしは、くすぐったそうにからだを揺らし、まんまるの光を胸に抱いていました。
不思議な夢だった、と思います。あんなに頼りなく、形の定まらないものが、自分だったはずがないのですから。
でも、その夢を思い出すと、硬いからだの芯のところが、ほんの少しだけ、ふるえるような気がしました。
長い、長い冬が終わります。
空から降る光が、少しずつ熱を帯びてくるのが分かりました。わたしのからだのふちが、ちいさな宝石のようなしずくになって、ぽたり、とこぼれ落ちます。
ああ、また、あの夢が近づいてくる。
いいえ、夢じゃない。あれもまた、もうひとりの「わたし」なのだ。
だんだんと、わたしの意識は春の霞のように、輪郭がぼやけていきます。
氷であったことの記憶が、静かに、けれど確かに溶けていきます。ダイヤモンドのように輝いていたこと、誇らしい静けさの中にいたこと、なにもかも。ただ、切ない、という感覚だけを残して。
そして、わたしは、水になりました。
昼は、空の青や、渡っていく雲の白を映し、風が吹けば、きらきらと笑うようにからだを揺らしました。夜は、まんまるの月を胸に抱いて、しん、と静かな光を宿します。
わたしは、満たされていました。でも、ときどき、胸の奥がちくり、と痛むのです。
「何か、とても大切なものを忘れてしまったような気がする」
冬の間に見ていた、静かで硬い夢のことは、もうほとんど思い出せません。
でも、その忘れてしまった夢の感触が、なぜだろう、たまらなく懐かしいのです。
わたしは、まだ知りません。
やがてまた、空気が冷たくなるとき。
わたしが、懐かしい「だれか」に再会するために、水だった記憶を、ゆっくりと手放していくことになるということを。
そして、その「だれか」もまた、時がめぐり、わたしに会うために、氷だった誇りを、静かに溶かしていくことになるということを。
(了)
作・氷上冬子

このものがたりから生まれた2つの詩



