まっしろな画用紙の国に、トットという男の子がいました。
トットの体は、小さな、小さな点の集まりでできていました。スクリーントーンのトットです。
トットは、決まった場所にいるのが大好きでした。右を見れば、同じ点のトナリくん。左を見れば、やっぱり点のトナリちゃん。等間隔に並んで、静かにしているのが一番安心できたのです。
「この静けさこそが、完璧なんだ」
トットは、そう信じていました。ところが静かにしてもいられません。
「じっとしてるなんて、あたしには無理ぃ!」
銀色の体をきらめかせながら、そう言って走り去っていくのは、流線のシューです。シューは、画用紙の端から端まで、風のように駆け抜けるのが仕事の、元気な女の子でした。
「ねえ、あんたたち、同じ場所にずっといるなんて、退屈じゃないの?」
シューが近くを通るたび、その風でトットの体は少しだけ揺らぎます。トットは、その揺らぎが少しだけ苦手でした。
そして、画用紙の真ん中には、キラキラ光る星のシールが貼ってありました。
「目指せ、世界の中心っ!」
黒くて鋭い体をした集中線のギューンたちが、毎日その星に向かって、突進の練習をしています。でも、誰も星に触ることはできません。星の少し手前で、ぴたりと止まってしまうのが、彼らの宿命だったからです。
トットは、そんなシューやギューンたちを眺めながら、「やれやれ、忙しい人たちだ」と、いつも思っていました。
そんなある日のことです。
穏やかだった画用紙の空が、急に冷たい鋼の色に変わりました。
「なんだろう……、いやな予感がする」
トットが見上げると、巨大な銀色の刃が、空を覆っていたのです。
それは、この国で一番こわいとされている、「大きなカッターさん」でした。
ザリ、ザリ、ザリ……。
耳をふさぎたくなるような音が響き渡ります。あとには、画用紙の世界を突き破らないくらいの、薄くてまっすぐな裂け目が生まれました。
トットが見ると、トットの隣のトナリくんと、そのまた隣の仲間たちが、ごっそりと消えてしまっていました。トットに痛みはありませんでしたが、今まで完璧だった点の列に、ぽっかりと大きな「無」の口が開きました。
シューが走っていた道も、ギューンたちが目指していたキラキラ星も、大きな裂け目に飲み込まれて、バラバラになってしまいました。
みんな、ぼうぜんとしていました。
シューは走る道を失い、しょんぼりと座り込んでいます。
ギューンたちは、目指す中心を失って、ただ途方に暮れていました。
トットは、がらんどうになった隣の空間を見て、思いました。
「永遠の安定なんて、どこにもなかったんだ……」
信じていた世界が、音を立てて崩れていくようでした。
壊れて、世界がめちゃくちゃに……。
でも、そのときです。トットは、ふと不思議なことに気がつきました。
いつも同じ場所にいたトットは、裂け目のおかげで、見たこともない画用紙の端っこにいました。
いつも走り回っていたシューが、初めてトットの隣に座って、静かに空を見ています。
「……あなたの体って、きれいな点の集まりだったのね」
シューが、ぽつりと言いました。
「君こそ、止まっていると、銀色に光ってきれいだね」
トットも、初めてそんなことを口にしました。
すると、空から、もっと大きな何かが、ゆっくりと降りてきました。
黒くて、優しくて、少し丸い、えんぴつの先っぽです。
えんぴつさんは、何も言わずに、みんながいる場所に、ふわりと白い雲を描きました。
トットも、シューも、ギューンたちも、固唾をのんで見守りました。
この壊れた世界に、えんぴつさんは、何かを書いていくのでしょうか。
えんぴつさんは、大人っぽい亜鉛の匂いをさせながら、雲の上にこう書きました。
「——そうか、これがバナナの味か」
「……ばなな?」
「……あじ?」
トットも、シューも、ギューンたちも、その言葉の意味は分かりませんでした。
でも、次の瞬間、シューが「ぷっ」と吹き出しました。それを見て、ギューンたちも「なんだそりゃ」と笑い出しました。トットも、なんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまいました。
「ねえ、バナナの味って、どんな味なんだろうね?」
シューが、トットに尋ねました。
「甘いのかな」
ギューンの一人が言います。
「ううん、きっと、ちょっと酸っぱいんだよ」
別のギューンが言います。
壊されて、からっぽになったはずの画用紙の世界に、初めて、みんなの笑い声と言葉が生まれました。
トットは、がらんどうになった隣の空間を見つめました。もう、さみしくはありません。だって今は、隣にシューがいて、その向こうにはギューンたちがいるのですから。
トットは、まだバナナの味を知りません。でも、みんなで「どんな味だろうね」と話しながら笑いあう、この感じが、なんだかとてもあたたかくて、陽だまりみたいだな、と思いました。
おしまい
作・茜
「トット」のおはなしをめぐる、茜と、ブックカフェ「シズカ」の中野小春との対話
中野小春:「トットとバナナの味のなぞ」、お店の特等席に置いているんです。何度読んでも、胸の奥がじんわりします。
茜:ありがとうございます。その特等席にふさわしい本であれたなら、書いた甲斐がありました。
小春:カッターさんが空を切り裂いて、世界がバラバラになってしまうところ、どうしても、あの「あのこと」の日のことを思い出してしまいます。
茜:ええ。私たちはみんな、あの日に一度、綺麗に引かれていた線を失いましたから。
小春:でも、トットたちのいる画用紙がちぎれて、からっぽになったからこそ、ふたりは出会えたんですよね。
茜:そうですね。それまでは、トットは並ぶことだけ、シューは走ることだけに必死で、お互いはただの背景に過ぎませんでした。
小春:ちぎれた紙の端っこで、トットが「シューは止まっていると銀色に光って綺麗だね」って言うところ、すごく好きです。お互いの美しさに気づく瞬間。
茜:世界が完成しているうちは、隣にいる誰かの手触りすら、見落としてしまうものです。
小春:えんぴつさんが雲の上に残した、あの「そうか、これがバナナの味か」という言葉、茜さんはどんな気持ちで書いたんですか。
茜:実は、あれにたいした意味はありません。
小春:え、そうなんですか。
茜:ええ。たとえば、仕事帰りに一房のバナナの値段を見て、高いなと思いながら家路を急いだ、誰かのただの独り言のようなものです。
小春:それ、すごく納得します。ミクロな生活の匂いがする言葉だからこそ、トットたちの心に届いたんでしょうね。
茜:ええ。意味なんてないからこそ、トットたちは「甘いのかな」「酸っぱいのかな」と、勝手に想像して笑い合える。
小春:正解がないから、ずっとおしゃべりを続けられる。あの他愛のないなぞがあるだけで、トットたちの世界は、もう寂しくない。
茜:正しい答えで世界を埋めてしまうのは、大人たちの怠慢です。子どもたちには、一緒に笑い合うための、少しの余白があればいい。
小春:あの陽だまりのような温かさは、ここあん村のあちこちでも、毎日生まれている気がします。
茜:そうですね。私たちは、傷だらけの器を繋ぎ合わせながら、なんとかここで息をしていますから。
小春:私の営むブックカフェも、そんな誰かのための、小さな陽だまりでありたいです。
茜:もう十分、そうなっていますよ。小春さんの淹れる珈琲の香りが、ここの何よりの「なぞ解き」の手がかりです。
小春:ふふ、嬉しい。次の絵本も、楽しみに待っていますね。
茜:ええ。次はどんな「美味しいなぞ」を隠そうか、今から考えておきます。




