雪の森が、すべての音を吸い込む。
降り積もる白は、世界のあらゆる境界線を曖昧にし、生きとし生けるものの輪郭を、優しく消し去っていく。
その森の奥に、リリという少女がいた。リリには、生まれつき心臓の音がなかった。喜んでも、悲しんでも、胸に手を当てても、そこにあるのは完全な静寂だけ。自分の名前を呼ばれても、それが本当に自分のものであるという実感が、リリにはなかった。このままでは、雪に紛れて消えてしまう自分を、誰も気づいてはくれないだろう。
だからリリは、決めたのだ。森の奥深くに棲むという、「名前を食べるオオカミ」に、自分を食べてもらおうと。そうすれば、オオカミの中でなら、永遠に忘れられずに済むかもしれない。
雪を踏む自分の足音だけが、今にも消え入りそうな彼女の存在証明だった。やがて辿り着いた大樹の根元に、そのオオカミはいた。月光を吸い込んだような、銀色の毛皮を持つ、賢者の瞳をした、孤独なオオカミだった。
「おや、おチビさん。お前からは、何の音もしないな」
オオカミの声は、地殻の奥深くから響くようだった。
「オオカミさん、私には、心臓の音がないの。だから、私の名前を食べてください。そうしたら、私がここにいたって証明できるんじゃないかしら、そう思って」
オオカミは、長い間リリを見つめていたが、やがて静かに首を振った。
「たしかに、わしは『名前を食べるオオカミ』などと呼ばれている。だがな、名前だけでは、腹は満たされぬ。名前とは、ただの器だ。その器に注がれた、お前の物語の味を、わしに教えてみろ」
オオカミはそう言ってリリをにらみ付けた。しかし、リリには、オオカミが少しもこわくなかった。
リリは、生まれて初めて、自分の話をした。晴れた日に屋上で食べた、給食のパンの温かさ。友達と喧嘩して、言えなかった「ごめんね」の言葉の、喉に刺さった小骨のような痛み。誰にも言えなかった、夜中にこっそり流した涙の、しょっぱい味。
物語が終わる頃、オオカミはリリの足元に、その大きな頭を擦り寄せた。
「……いい味だ。だが、最高の味にするには、まだ何かが足りない」
オオカミは、その黄金色の瞳で、リリの胸をまっすぐに見つめた。
「お前の、その音のしない心臓。それも一緒に寄越せ。そうすれば、わしの中で、お前は永遠の鼓動を得るだろう。わしがお前の心臓となり、お前がわしの永遠となるのだ」
リリは、こくりと頷いた。恐怖はなかった。ただ、歓喜があった。
オオカミが、リリの薄い胸に、そっと鼻面をうずめた、その瞬間。
トクン。
初めて、リリの心臓が、大きく、確かに、鳴った。それは、リリがこの世に生まれて、自分の存在を確かに感じた、たった一度きりの音だった。
次の瞬間、オオカミはリリの名前と、最後の鼓動を、やさしく、しかし抗いようもなく、その口で吸い上げた。リリの身体は、足元から光の粒子となって、はらりはらりと雪に溶けていった。満足げな、安らかな微笑みを浮かべたまま。
彼女の姿が完全に消え去った後。静寂の森に、力強い鼓動が響き渡り始めた。
トクン、トクン、トクン。
それは、オオカミの心臓の音。いや、リリの心臓の音。そのあたたかいリズムに呼応するように、厚く積もった雪がみるみる溶け、地面からは新しい命が芽吹き、森は一斉に春を迎えた。
孤独だったオオカミは、もう孤独ではなかった。胸の中に響く、愛おしい鼓動と共に、永遠に生きていくのだから。
(了)
作・真田まる
オオカミとリリのおはなしをめぐる、真田まるとおはぎはんの対話
おはぎはん:まるちゃん、読んだで。『名前を食べるオオカミ』。
真田まる:読んだん。あれ、昔書いたほんまに短いお話やのに、よう見つけてくれたね。
おはぎはん:見つけるに決まっとるやん。あんなん、どう読んだってまるちゃんそのものやんか。読んでるとき、胸の奥がぎゅうって締め付けられて、痛うてたまらんかったわ。
まる:痛かったん。
おはぎはん:痛いよ。心臓の音がせえへん女の子の、給食のパンの温もりとか、夜中にこっそり流した涙の味とか、全部聞いてさ。オオカミが自分の胸にその音を引き受けて、代わりに生きていくんやろ。それ、まるちゃんが普段「ものがたり屋」のあの部屋でやっとることと、まるっきりおんなじやないの。
まる:そう見えるんかな。
おはぎはん:見えるどころの話やないわ。誰にも言えへんかった後悔とか、行き場のない孤独を抱えた人らがやってきて、まるちゃんはそれを言葉だけやなくて、自分の肌の温もりでまるごと抱きしめて受け止めてる。相手は軽くなって帰っていくけど、その代わりに預かった誰かの重みとか冷たさは、全部まるちゃんの胸に残るやんか。
まる:残るよ。でもな、冷たいままで終わるわけやないねん。誰かが一人で凍えてた痛みを、うちの体温で少しだけ溶かして、その人がふっと息をついて前を向けるようになるなら、それはうちにとっても、息をして生きていくための大事な役目なんよ。
おはぎはん:せやとしてもや。オオカミかて一人でずっと雪の森におったら、いつか自分から凍え死んでまうわ。リリの心臓を引き受けて春が来たとしても、オオカミ自身の背中を温めてくれる相手はおらんかったやんか。
まる:せやから、うちにはおはぎがおるやん。
おはぎはん:え。
まる:あのお話のオオカミには誰もおらんかったかもしれんけど、うちにはあんたがおる。あんたが泥のはねた靴で走ってきて、息を切らしながらうちの戸をあけてくれるから、うちは誰かの冷たさに呑まれんと、ちゃんと血の通った自分でいられるんよ。
おはぎはん:うち、槍やからな。外でどれだけ現実とぶつかってボロボロになっても、まるちゃんの胸に飛び込んだら、あんたが盾になって全部受け止めてくれる。せやけどな、まるちゃんが誰かの物語を引き受けて冷え切ってるときは、うちがその盾を力いっぱい抱きしめる番や。
まる:うん。知ってる。
おはぎはん:今夜は、朝までずっと背中合わせとこ。まるちゃんが預かってきた冷たい物語、うちの熱でぜんぶ溶かしたるから。
まる:あほやん。でも、ありがとう、おはぎ。あんたの掌、いつもほんまに温かいね。





