かんたは小さな移動図書館車。
その日、かんたは、新しい道を走っていました。
いつもの山道ではなく、団地の横を通る道です。かんたの仕事は、この道を通り過ぎて、ずっと先にある海辺の町まで本を届けることでした。
いくつもの四角い建物と建物の間に、公園でもない、ただの空き地のような場所がありました。
かんたは、ふと気づきました。そこに、ぽつんとひとつだけ、鉄棒くらいの大きさのブランコが置かれているのを。ブランコには、ひとりの女の子が座っていました。赤いワンピースを着たその子は、誰と話すでもなく、ただ静かに、ゆっくりとブランコをこいでいました。
「こんにちは」とクラクションを鳴らすには、少し遠すぎました。かんたは、その光景を横目で見ながら、そのまま通り過ぎました。
次の週も、かんたはその道を通りました。
見ると、あのブランコに、この前とまったく同じように、赤いワンピースの女の子が座って、静かに揺れています。その次の週も、また次の週も、かんたが通りかかるたびに、女の子はいつもそこにいました。
なにも起こりませんでした。かんたは通り過ぎる。女の子がブランコをこいでいる。ただ、それだけです。
かんたにとって、ブランコの女の子は、道端に咲く花や、決まった場所にいる猫のように、いつもの景色の一部になりました。
でも、いつからか、かんたの心に、小さな変化が生まれました。
(今日は、いつもより少しだけ、ブランコが高く揺れているみたいだな)
(風が強い日も、あの子は静かにこいでいるんだな)
(雨の日は、どうしているんだろう)
かんたは、女の子の姿を、ただの景色としてではなく、ひとつの「心」として感じ取るようになっていました。名前も知らない、声も聞いたことのない女の子ですが、その静かな存在が、かんたの心に、水滴が石に落ちるように、静かな波紋を広げていったのです。かんたの心は、その女の子のおかげで、目に見えないものを感じ取る練習をしていたのかもしれません。
そんなある日、かんたは山奥の分校で、くまにばったり出くわしました。子どもたちを守るために、必死でエンジンをうならせあたあの日です。あの日を境に、かんたは、自分の心の中に「勇気」や「愛情」という、とてもあたたかくて力強い感情があることを知りました。かんたの心は、豊かになったのです。
心が豊かになったかんたは、海辺の町へ向かう道を走りながら、思いました。
(あのブランコの女の子に、このあたたかい気持ちを、少しだけ分けてあげたいな)
かんたは、いつもの団地の横にさしかかりました。
そして、ブランコのある空き地を見ました。
ブランコは、そこにありました。
でも、女の子の姿は、どこにもありませんでした。
ブランコは、まるでさっきまで誰かが乗っていたかのように、かすかに、ゆっくりと揺れていました。
それからというもの、かんたが何度その道を通っても、女の子の姿を見ることは二度とありませんでした。
ブランコは、風に吹かれて揺れていることもあれば、ぴたりと地面に向かって止まっていることもありました。
不思議なことに、かんたは、さみしいとは思いませんでした。
女の子の姿は見えなくなってしまったけれど、かんたには、今でもはっきりと感じられるのです。あのブランコに漂う、静かで、穏やかな女の子の気配を。
空っぽのブランコを見つめながら、かんたは、心の中でだけ会える、大切な友だちのことを思いました。
おしまい
作・茜
「いつもの道の、ブランコ」をめぐる、作者の茜と、バトンを受け継ぐ菜箸千夏の対話
菜箸千夏:1話目の海の底で引き受ける深い悲しみ、2話目の熊から子どもたちを守る必死さのあとに、茜さんの3話目を読んで、どれも胸に迫ってきて。言葉も交わさなかった、赤いワンピースの女の子。いなくなってしまったあとの、あのブランコに残る気配。次の4話目、私が担当するのですが。
茜:どうした? 手が止まっちゃった?
千夏:はい。ここあん図書館の司書として、移動図書館担当として、正しい答えを考えてしまって。一行書いては消して、の繰り返しで、どうしても教訓集みたいになってしまうんです。
茜:教訓なんて、子どもたち、あくびをして逃げていっちゃうわよ。
千夏:頭では分かっているんです。でも、3話までのかんたが、重たいものを引き受けているのに生き生きとしていて、その続きに何を足せばいいのか、迷子です。
茜:足そうとするから苦しくなるんじゃないかしら。千夏さんは毎日、ロマコメ号の運行で実際に村を回っているでしょう。現場で本を手渡して、夕方になったら戻ってくる。そのとき、千夏さんが一番見ているものは何だろうね? 立派な理念や、美しい物語の結末?
千夏:いえ、そんな大層なものじゃ全然ないです。返却された本の角が少し折れているのを見つけたり、リクエストカードに本の名前を書く利用者さんのボールペンの先の動きだったり、エンジンの震えだったり。そういう、些細なことばかりです。
茜:ほらね。私には全然、思いつかない。ブランコのあの子に対して、かんたは結局、一度も車を停めなかったし、本を一冊も手渡さなかったでしょう。
千夏:はい。ただ通り過ぎて、ある日いなくなって、でも心の中で大切な友だちになった、と。
茜:移動図書館の仕事って、本を借りてくれた人との間だけで完結するものじゃないと思うのよ。千夏さんは毎日ロマコメ号を走らせていて、車の中から外の景色をずっと見ているはずよね。
千夏:はい。毎日見ています。
茜:そのとき、声をかけてこない人たちのことも、見ているでしょう。
千夏:見ています。畑の隅で腰を伸ばしてこちらを眺めている人や、ベランダから見下ろしている人、ただ通り過ぎる自転車の背中。
茜:その人たちと千夏さんの間にも、ちゃんと物語は流れているのよ。関わらなかったこと、手渡せなかったこと、ただそこですれ違っただけの時間。それも全部、移動図書館が運んでいるものなの。
千夏:すれ違っただけの時間。
茜:そう。立派な解決や温かい結末を足そうとしなくていいの。かんたが通り過ぎたあとに残る、からっぽの場所の気配とか、誰かが去ったあとの地面の冷たさとか。千夏さんが現場で見つめている、その触れられない余白を、素直に置いてみればいいんじゃないかしら。
千夏:触れられない余白。
茜:千夏さんが現場で触っているその手触り以上の答えなんて、どこにもないわよ。きれいに片付けられた本棚じゃなくて、棚に一冊だけぽっかり空いた隙間。その隙間の形を知っているでしょう?
千夏:はい。
茜:なら、大丈夫。もう書くべき場所の輪郭は見えているはずよ。
千夏:なんだか、胸のつっかえが下りた気がします。物語を完結させなきゃって、気負ってたみたいです。もっとずっと手前にある、車と、そこに関わる誰かの呼吸に目を向けてみます。




