かんたは小さな移動図書館車。
かんたの朝は、いつも同じ気配で始まる。
背中の扉が開き、優しい空気が流れ込む。そして、人の手によって、新しい物語が、かんたの体の中にそっと収められていく。その手つきは、いつも柔らかく、丁寧で、かんたはその気配を「優しい言葉」のように感じていた。
その日、かんたは一つの違和感に気づいた。
いつもの「優しい言葉」に混じって、一つだけ、まるで硬い石を置くような、冷たくて、重い気配があったのだ。
それは、一冊の本だった。
鮮やかな絵も、楽しそうな題名もない。ただ、黒い表紙に、ぽつんと白い文字が書かれているだけ。かんたには読めないけれど、その本が放つ気配は、他のどの本とも違っていた。それは、子どもたちを喜ばせるためのものではない。静かで、冷たくて、何かを問い詰めるような、厳しい空気をまとっていた。
(どうして、こんな本を乗せるの……?)
かんたは、この本を置いた者に尋ねたかった。この「厳しい言葉」を、あの子どもたちに本当に届けるのですか、と。
でも、だれも何も答えない。ただ、準備が終わると、かんたの背中がぽん、と軽く叩かれた。いつもは楽しいはずのその合図が、今日のかんたには、「行って来なさい」という、重い命令に感じられた。
かんたは、いつもの公園へ向かった。
子どもたちが駆け寄ってくる。その笑顔を見るたびに、かんたの心臓は喜びで跳ねるのに、今日だけは、背中のあの黒い本が、鉛のようにのしかかっていた。
一人の女の子が、その黒い本に気づいた。
いつもは、動物がたくさん出てくるお話を選ぶ子だ。女の子は、不思議そうにその本を手に取り、パラパラとめくった。そして、そのまま、かんたから少し離れたベンチに座り、読み始めた。
かんたは、その子の様子から目が離せなかった。
女の子は、笑わなかった。驚きもしなかった。ただ、ページをめくるたびに、その小さな肩が、ほんの少しずつ、内側に丸まっていくように見えた。物語を読み終えたとき、女の子は本を閉じ、顔を上げずに、ゆっくりと公園から去っていった。その背中は、かんたが今まで見たどの背中よりも、小さく、寂しそうに見えた。
「厳しい言葉」は、確かにあの子に届いてしまったのだ。
あの子の心に、どんな冷たい影を落としてしまったのだろう。かんたは、取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、たまらなかった。
帰り道、車庫に戻ると、あの本を置いた主が待っていた。
主は、空になったかんたの本棚を、いつものように片付け始める。かんたは、動けずに、ただその気配を感じていた。
(あなたのせいだ)
(あなたが、あの子を傷つけたんだ)
声にならない非難が、かんたの中で渦巻いていた。
そのとき、主の手が、ふと止まった。
そして、その手が、かんたの冷たい鉄のからだに、そっと触れた。
それは、慰めではなかった。謝罪でもなかった。
重たい沈黙のやりとり。
ただ、かんたの心の震えと、主自身の揺るぎない覚悟とが、手が添えられた部分で、静に入り混じった。
主は、何も言わない。
ただ、明日届けるべき本を、また一冊、また一冊と、棚に並べていく。
その手つきは、やはりどこまでも優しかった。そして、今のかんたは、同じくらいの冷徹さを、その手つきから感じ取ることができた。
かんたは、ゆっくりと目を閉じた。
明日もまた、この主の選んだ言葉を、子どもたちに届けるのだ。
その言葉が、たとえ優しい甘さにくるまれたものでなかったとしても。
それが、図書館車である自分の、変えられない運命なのだから。
おしまい
作・高島雅也




