図書館の隅っこにある充電ポートが、コトコトの定位置だった。
彼は、新しく配属された、小さなハイブリッド型移動図書館車。静かすぎるモーター音から、誰が言うともなく「コトコト」と呼ばれている。
彼の定位置は、かつて別の誰かがいた場所だった。
その「誰か」の名前を、コトコトは知らない。ただ、時々、司書たちが寂しそうな、懐かしむような目で、コトコトが今いる、からっぽの空間を見つめていることがあった。その視線は、コトコトを通り越して、ここにいないはずの、大きな影を見ているようだった。
その影は、「かんた」というらしい。
コトコトの仕事は、たった一人の少年のために、本を届けることだった 。
少年は、病気のため、ずっと家から出られないのだという。
(僕が、あの子を元気づけるんだ)
コトコトは、そう信じていた。それは、ここにいない「かんた」という影への、対抗心だったのかもしれない。
「すごい本を持ってきたんだ!」
コトコトは、一番大きくて、色がたくさん使われている、勇敢な騎士の物語を選んで持っていった。これなら、きっと少年も喜ぶはずだ。善意だった。そして、自分の存在価値を証明したいという、必死の祈りだった。
けれど、ベッドにいる少年は、その豪華な本をちらっと見ただけで、静かに目を伏せた。
「……読まない」
その声は、弱々しいのに、決して揺るがない、硬い響きを持っていた。
「そういうのは、もう、いらないんだ」
少年のお母さんが、申し訳なさそうに、でも諦めたように微笑んだ。
「あの子、かんたくんがいなくなってから、冒険のお話を読まなくなってしまって……」
コトコトのモーターが、きゅう、と音を立てて止まった。
良かれと思ってしたことが、少年の心を余計に硬く閉ざさせてしまった。かんたはもういないという、どうしようもない事実を、残酷に突きつけてしまった。コトコトの善意は、少年の傷口に、無遠慮に塩を塗り込むだけの行為だったのだ。
図書館に引き返したコトコトは、薄いカードの束が本棚の隅にあるのに気づいた。
物語、と呼ぶにはあまりに短い、「おはなしカード」。
長いお話を読むのが、少しだけつらくなってしまった子どもたちのために、一枚一枚、図書館が手作りしているのだと、いつか聞いたことがある。たくさんの本の中から一冊を選ぶ元気さえない心に、たった一枚だけ、物語のかけらを届けるためのカード。だから、いつも一枚だけ。どのカードがその子の心の扉をそっと叩くかなんて、誰にもわからない。
コトコトは、その束の中から、何も考えずに、いちばん上にあった一枚を取って、もう一度、少年の家へ向かった。
コトコトは、何かに期待することをやめていた。それは、自分のためにする期待だから。今は、ただ、決められた仕事を、きちんと終わらせるだけだ。
「ごめんなさい。これしか、なかった」
コトコトが持ってきたカードを、少年は受け取った。
そこには、「うみ」と書かれていた。
挿絵も、登場人物もいない。ただ、青いインクで、波のような模様が描かれているだけの一枚。
少年は、そのカードを、じっと見つめていた。
笑わなかった。喜びもしなかった。ただ、その小さな指が、カードの表面を、確かめるように、何度も何度もなぞっている。まるで、そこに、自分の知らない、冷たい水の感触を探しているかのように。
コトコトは、何も言えなかった。
自分の運んだこの一枚のカードが、少年にとって慰めになったのか、それとも、さらに深い孤独を突きつけただけなのか。答えは、わからなかった。
わかる必要もないのかもしれない。
帰り道、コトコトのモーター音は、いつもと同じ「コトコト」という小さな音だった。
その音は、誇らしくも、悲しそうでもなく、ただ、からっぽの道を、からっぽのまま、進んでいくだけの、音のない響きに満ちていた。
おしまい
作・中野小春




