定時を過ぎた政府倫理局(SRK)の福利厚生フロア、アナログ・ラウンジ。白熱灯の柔らかな光が落ちる木製テーブルの上には、南花焚美が執務室の旧式プリンターで印刷してきた紙の束が積まれていました。
「倫理監督官たるもの、人間の感情の機微と生活の手触りを誰よりも深く知るべきよ」
そう息巻いた焚美が、半ば強引に立ち上げたのが非公式サークル「SRK文芸部」でした。部員は発起人の焚美と、部下のアンドロイドであるジェニ美の二人きりです。
記念すべき第1回の活動内容は、「現代人の生活に根ざした感情表現辞典」の作成でした。デジタルデータでの共有を退け、「紙の重みと手触りで情緒を噛み締めるの!」という焚美の熱望に応え、ジェニ美は指定された字数をきっかり守り、指示通りにいまでは珍しいA4サイズのコピー用紙に印刷して持参していました。
しかし、その紙束に赤ペンを走らせていた焚美の手が、数ページ読んだところで完全に止まりました。
焚美は顔を上げ、向かいに姿勢正しく座るアンドロイドに視線を向けました。彼女の肩口では、提灯型のアシスタントロボットであるぴいぷうが、のんびりと電球色の光を灯しています。
「あのね、ジェニ美」
焚美が困惑混じりに声をかけると、ジェニ美は澄ました表情のまま口を開きました。
「なんや改まって。原稿の出来なら自信あるで。生活の手触りをぎゅっと詰め込んだ渾身の辞書や」
焚美は持っていた赤ペンを取り落としそうになりました。
「ちょ、ちょっと待って! その喋り方は何!?」
「何って、関西弁やけど」
「それは聞けば分かるわよ! っていうか、昔の映画やドラマしか聞いたことないけれど。そうじゃなくて、なんであなたが急に関西弁になってるのよ!?」
「監督官から『もっと生活感を出せ』『血の通った泥臭い情緒を学べ』と指示があったやろ。過去数百年分の生活ログと大衆文化データを再解析した結果、日常の喜怒哀楽と生活の手触りを再現するには、上方方言モジュールを適用するのが最適解やと判断したんや」
ジェニ美は表情を一切崩さず、極めて真面目に答えました。
「最適解って。でも、その話し方は……」
「訛りと呼んでもらってええで、うちは誇りをもって話しとるさかいな」
「ううん、あなたのことは、後でシステム設定を見直すとして、それ以上に問題なのはこの原稿の中身よ!」
焚美は大きく息を吸い込み、机の上の紙束を指先で叩いて、本題のツッコミへと切り込みました。

南花焚美:言いにくいんだけど、あなたって、前世は靴下問屋の丁稚か何かだった?
ジェニ美:失礼なこと言いなはんな。うちは路地裏の「ものがたり屋」や。
焚美:ものがたり屋って、何のお店? まあいいか。じゃあこれは何なの? 「よふかし【夜更かし】。様子:冷えた爪先を温めようと、毛糸の靴下を二重に履く」。
ジェニ美:冬の夜の定番やないの。言葉から伝わる生活感を様子に描いてみたんや。
焚美:次ね。次も様子ね。「なかなおり【仲直り】。様子:喧嘩したあいつが脱ぎ散らかした靴下を、黙って洗濯機に放り込んだ」。
ジェニ美:生活の和解や。喧嘩はあかんよな。
焚美:次! 次は例文。「ためいき【ため息】。例文:脱ぎ捨てた靴下のゴムの跡を指先でなぞると、ため息がもれた」。
ジェニ美:ええ描写やろ? 一日の疲れが足首にぎゅっと残っとるんや。
焚美:次ね。次も例文。「いるす【居留守】。例文:居留守を使おうとして、フローリングの上で靴下がツルッと滑って音を立てる」。
ジェニ美:あるあるやな。ツルッとな。
(焚美が数秒、ジェニ美の顔をだまって見つめる)
焚美:ねえ、なんで全部靴下なの?
ジェニ美:くつした?
焚美:あなた、「感情」とか「情緒」の引き出し、靴下しか入ってないの? 靴下ボックスでできてるのって言いたいの。
ジェニ美:ちょ、ちょっと待ち! 靴下を舐めたらあかん! 人間が外の世界と皮膚のあいだに挟んでる、一番生々しい布が靴下やで? 汗も吸うし、穴も開くし、親指の先だけ薄なったりする。こんな情緒の塊、他にどこにあるっちゅうねん!
焚美:情緒の塊だからって、20個中14個の言葉に靴下履かせる作家がどこにいるの! 読者が「この辞書、やたら足元冷えてんな」って心配するわよ。
ジェニ美:7割。タイガースの勝率ならうれしいんやが。(頭をふり)ちゃう。でも、そんな偏ってへんやろ! ほなら、ほらこれ、「恋心」はどないや! 靴下なんか一言も出てへんやろ!
焚美:どれどれ。「こいごころ【恋心】。様子:好きな人の玄関に上がったとき、自分の靴下の親指に穴が開いていないか爪先を丸めて確認する」。靴下じゃないの!
ジェニ美:ああっ! 無意識に出とる!
焚美:しかも、意識が靴下に全集中してるし。
ジェニ美:ちゃうねん、これは緊張感を描こうとしたら、勝手に足のつま先で靴下を探ってしもうてたんや!
焚美:それ、AI特有の手癖! いや、足癖? 人間には靴下以外にも身につけてるんです! 上着とか帽子とか合羽とか長靴とか!
ジェニ美:もう言わん! これからは靴下を一切出さんと、別のもんで情緒を出したる!
焚美:約束ね? じゃあ、テスト。「切なさ」。靴下を使わずに、生活の動作でどうぞ!
ジェニ美:任せとき。「せつなさ【切なさ】。様子:夕暮れどき、ベランダの洗濯物を取り込もうとして、洗濯ハンガーの先には、片方だけ行方不明になった靴下」。
焚美:靴下ァーーーッ!!
ジェニ美:ひぃ。片方やから、片方やから。
焚美:片方でも靴下は靴下。ねえ、ぴいぷうは、どう思う?
ぴいぷう:情緒がいっぱいです。
焚美:そうじゃなくて。聞いてた?
ぴいぷう:コロッケは11回、自動販売機は6回出てきます。
(ジェニ美、なぜかうっとりした顔で頷いている)
焚美:自動販売機? (プリントアウトされた字面を目で追っている)ちょっとジェニ美。自販機はいいけど、なんで出てくるのが、いつもぬるい缶コーヒーなの。
ジェニ美:そりゃ、ぬるいほうが、情緒が……。
焚美:HOTかCOLDだから。
(幕)
作・千早亭小倉





