箱庭コントを支える「話紡」とは?

GeminiやChatGPTに「ここあん村」の箱庭コントを見せて感想を尋ねてみる。

最初はあれこれと褒めてくれたりする。褒められれば、まあ、素直にうれしいし、「お前、なかなかわかってるじゃないか」などと思い上がったりもする。

ただ、そのあとにそいつらがしれっと「しかし、弱点もあります」なんて言い出して、「似たような構造が続いていますね」と鋭い指摘が飛んでくることもある。

なるほどなあ、と思う。

けれど、そうした批判的な意見をもらっても、実のところあまり気にはならないのだ。もともとGeminiたちが言うことを真剣に聞いてなかったりして……いや、聞く気はあるのだけど、長いんだもの。話がずれた。そもそも、である。「似たような構造が続く」ことって、そんなに悪いことなんだろうか? もしその構造自体が「強み」であるならば、似た構造になるのはごく自然なことじゃないかと思う。

例えるなら、Geminiたちの言っていることって、ラーメン屋の暖簾をくぐって「ここのラーメンは美味しいけれど、いつも同じ味ですね」と難癖をつけているようなものじゃないだろうか。

「ここはラーメンばっかりですね」と言われて、「いや、うちはラーメン屋だから」と店主が返す——そんなやり取りが頭に浮かんだ瞬間、「あっ、これでコントがひとつ作れそうだな、しめしめ」と思ってしまう。

――屁理屈である。

その通り。そして、こういう屁理屈がひらめく瞬間こそが、間違いなく私の創作を支える柱のひとつになっている。エンジン? ガソリン? どっちだ?

私のコントや物語の根底には「話紡わぼう」という考え方がある。辞書には載っていない。私の創作姿勢を表す造語だ。

日々の暮らしの中でふと心に浮かんだささやかな物語の種を、熱が冷めないうちにひとつの形へと仕上げていく営みのこと。何年もかけてひとつの巨大な傑作を磨き上げるのではなく、思いつきの瞬間に宿る瑞々しさや不完全さを大切にしながら、無数のささやかな話を次々と立ち上げていく。そうしたスタイルを指している。

Geminiたちとは別の意味で、人間は際限なくネタを考えられると思っている。私たちは毎日、何かしらを目にし、耳にし、おかしな出来事に出合っている。そこで「おや?」と首をかしげたり、ちょっとした屁理屈がひらめいたりする。その瞬間を逃さず、物語やコントへと仕立てていく。それが私の「話紡」という考え方であり、これからも変わらない創作の呼吸なのだと思う。

何しろ、ここあん村には、150人から住民がいる。無限✕150だから、相当な数だと思う。

千早亭小倉

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