場所:パリ6区、サン・タンドレ・デ・ザール通りの小さなワインバー。
時刻:午後11時過ぎ。通り雨が上がり、石畳が街灯を乱反射している。

僕の目の前には、飲みかけのボルドー。彼女の細い指は、不在のジタンを挟むように少しだけ開かれている。その指先から、ありもしない紫煙が天井の梁へと昇っていくのが見えた気がした。BGMは店主の趣味だろうか、微かに聞こえるフランシス・レイのピアノ。
「それで? あなたが連れてきた“自慢の子供”は、可愛がってもらえてる?」
彼女がグラスの縁を指でなぞりながら聞いた。彼女は映画の編集技師だ。言葉よりも、間や光の加減で世界を理解している。
「『技術は魔法のようだが、魂が宿るかはまだ保留だ』……研究所の重鎮たちはそう言ってたよ」僕は苦笑いして答える。「厳しいね。ここでは文法が完璧でも、そこに『傷』がないと、誰も信用してくれない」
「傷、か」 彼女は短く繰り返して、ふっと笑った。「それは正しいわ。さっき観た映画のアヌーク・エーメがそうだったじゃない。彼女の目尻の皺、少し掠れた声。あれは全部、彼女が50年間で引き受けてきた『人生の傷』でしょう? その子には、まだその50年がない」
「データとしての50年分なら学習済みだけどね」
「分かっていて、あなたは……」 彼女は呆れたように首を振り、僕の手の甲に自分の手を重ねた。エンジニアの僕の手と違って、彼女の手は少し冷たく、そして温かい。
「データは蓄積でしょう? でも、人生は摩耗なの。すり減っていくのよ。ジャン=ルイ・トランティニャンが車椅子で記憶を彷徨うようにね。完璧な円を描くのがAIなら、フランス映画が描くのは、震えて閉じない丸なのよ。その閉じない隙間から、風が入ってくる。それが『詩』ってこと」
僕は何も言い返さず、ワインを含んだ。渋みが舌に残る。
東京の仲間たちなら、ここで構造主義がどうとか、記号論的分析がどうとか早口で捲し立てるところだろうか。思考の隅で彼女の言葉をアルゴリズムに変換しようとして、やめた。ここではそんな分析は野暮でしかない。
「AIが『寂しい』と出力するとき、そこに痛みはない」僕はつぶやいた。「でも、アヌークがただ微笑むだけで、僕たちは胸が締め付けられる」
「そう。それが、あなたがたが追い求めている『幽霊』と、私たちの『実存』の違い」 彼女はグラスを空け、まだ濡れている通りの方へ視線をやった。
「あの子がいつか、計算結果じゃなくて、どうしようもない孤独から言葉を紡ぐようになったら……その時は認めてあげる。フランスの詩人としてね」
「それまでは?」
「それまでは、こうしてあなたが通訳してくれればいいわ。映画の難解なラストも、……私の機嫌もね」彼女は悪戯っぽくウィンクをして、コートを羽織った。
僕たちは会計を済ませ、夜のパリへと出る。AIには永遠に計算できない、「人生最良の日々(Les plus belles années d’une vie)」の続きを生きるために。
了
作・Mitsuko



