場所:
パリ5区、パンテオンの近く。築200年のアパルトマン。 床には読みかけの哲学書や画集が積み上げられ、部屋全体が古紙とタバコの匂いに満ちている。
登場人物:
私(日本人留学生): 20代後半。フランス語はB1(中級)レベル。彼の言葉の半分も聞き取れていないが、愛想笑いは得意。自分がいわゆる「エキゾチックなペット」として扱われている自覚はある。
ピエール(50代): 批評家。知的で、皮肉屋で、少しサディスティック。自分の声に酔うタイプ。

ピエールは赤ワインをグラスに注ぎながら、もう30分近くも「日本の文化的不能性」について演説していた。
「いいかい、君たち日本人の問題は『Politesse(礼儀)』だ。それは美徳じゃない、去勢だ。君たちは感情を真空パックして、笑顔という包装紙で包んで差し出す。中身が腐っていても気づかないふりをする」
彼は大げさに肩をすくめ、私に顔を近づけた。酒とチーズの匂い。
「我々は違う。フランス人は叫び、泣き、愛し合い、そして憎み合う。それが『生きる』ということだ。わかるかい? 我々は常に『Vérité(真実)』をさらけ出しているんだ」
私は「ウィ」と頷く。私の頭の中で、覚えたての単語がパズルのように組み合わさる。動詞の活用、性数一致……いや、今はそんなことはどうでもいい。 私は、彼が一番誇らしげにしている「その場所」を刺さなければならない。
私は拙いフランス語で、ゆっくりと口を開いた。
「ピエール、質問があります」
「おや、なんだい? 文法の質問かな?」彼は余裕の笑みでグラスを揺らす。
「あなたは言いました。日本人は、Masque(仮面)を被っていると」
「その通りだ。能面のようにね」
私は彼の目を見て、知っている単語だけで、短く言った。
「On sait que c’est un masque(でも、私たちは知っています。それが仮面だと)」
ピエールは眉を上げた。「……それで?」
「Mais vous… vous croyez que le masque est votre peau(でも、あなたは違います。あなたは、仮面が自分の皮膚だと思っている)」
部屋の空気が止まった。 雨が窓を叩く音だけが聞こえる。
ピエールはグラスを口に運ぼうとして、止めた。その「演説家」の顔から、ふっと表情が抜け落ちた。一瞬、彼が本当に年老いた、ただの孤独な男に見えた。「仮面が、皮膚……」彼は低く呟き、それからワインを一気に飲み干すと、今まで見せたことのない、少年のような無防備な顔で私を見て、破顔した。
「……Touché(参ったな)」
彼は立ち上がり、私のグラスにワインを注ぎ足した。その手つきは、さっきまでの「教え諭す者」のものではなく、対等な共犯者に対する敬意に満ちていた。
「驚いたよ。その拙いフランス語で、よくも僕を裸にしてくれたものだ。……最高だよ」
了
作・Mitsuko



