箱庭小説「水底に差す月光の輝きをキミはまだ知らない」|地層3「月」三部作(1)

地層3を構成する、主要三部作の第1作。長尺あらすじでご紹介します。

いずれ消え去る物語よ。

冷たいから氷なのか解けるから氷なのか

01 学生会館のラウンジに集う自主映画サークル「アーヌエヌエ」の面々。幹事長の聖林太郎や看板女優を自負する南ちづるが学生映画祭へのリベンジを熱く語り合う中、一浪の大学二年生、恋流波陽(ハル)が飄々と姿を現す。面倒な役回りを察して逃げ出そうとするハルをちづるがすかさず捕まえ、「ハルちんが撮るなら、私、全力で主演する!」と無邪気に焚きつける。制作経験がないまま学年ばかり上がっていた部員たちだが、コート・ダジュール国際映画祭を目指すなどと冗談を飛ばし合いながら、本気で一本の映画を形にしようと結束を固めていく。そんな中、寺の跡取りである岸辺義道が新人歓迎の余興として『時計じかけのオレンジ』のナッドサット語書き取りテストを提案するが、上の空だったハルはちづるを呆れさせるのだった。

02 部活帰りの高田馬場の居酒屋で、ハルの風変わりな女性の好みが槍玉に挙げられる。冷たくて笑わない女性を笑わせることに執着するハルを、林太郎はストーカーと切り捨て、ちづるも「ヘンタイムーンお兄さん」と容赦なくからかう。だがハルは「ストーカーじゃなくて、ロマン主義者と呼べ!」と胸を張り、『時計じかけのオレンジ』の台詞を引いて、笑わぬ少女を笑わせるのは冬の海に太陽が昇るようなものだと得意げに語る。『氷の微笑』のシャロン・ストーンらを思い浮かべ、「俺の熱意で、どんな氷山も溶かすことができる!」と熱弁をふるうハル。冷蔵庫にでも恋ができると仲間から呆れられながらも、彼は悪びれることなく、失われた感情を発掘するのだと言い放つ。周囲に何を言われようと、ハルは女性たちを見上げるような畏怖を抱きながら、独自の理想を追い求めていた。

03 賑やかな飲み会の隅で、ハルは己の性癖の根源について思索を巡らせていた。被災地支援のため長年東北へ赴任していた父・東彦の不在や、母からの希薄な愛情への反動なのか。それとも容易には手に入らない相手を屈服させたい挑戦心なのか。理屈っぽい頭であれこれと自問自答を繰り返しながらも、勝手に氷山と名付けられる女性側の憤りにも思いを馳せる。そんな彼が思い描く「最高峰の氷山女」とは、傷を癒やす対象などではなく、感情に流されず理性的な対話と議論のみに惹かれる孤高の知性だった。美貌や才能ゆえに周囲から隔絶され、極限の環境で感情を研ぎ澄ませてきたような女性。林太郎からは面食いだと揶揄されるが、ハルにとって外見の美しさは内面の輝きが透けて見えたものに過ぎない。自らの果てしない妄想が宇宙の果てにまで及んでいることに苦笑しつつ、思考の旅をひとまず終えるのだった。

04 「氷山女」という呼び名が生まれたのは、中学生の頃だった。駄菓子屋の奥で、十四歳のハルは漫画の冷徹なヒロインに熱弁を振るい、幼馴染たちを呆れさせていた。転校生の美少女や物静かな図書委員、素っ気ない女子の先輩など、ハルが惹かれるのは決まって近づきがたい相手ばかりだった。美人だが恐れられていた新任の国語教師にまで目を輝かせた際、林太郎が「自分には無理な山ばかり登っても頂上には着けない。そんなの氷山女だ」と言い放ったのが始まりだった。ちづるからも「余計なお世話」と一蹴されながらも、ハルは「彼女たちの冷たくて熱い心を解き放ちたい」と真剣に主張していた。それから約七年が過ぎ、大学二年生になった今も、彼の本質は何ら変わっていない。未踏の最高峰たる氷山を溶かし、友情とも愛情ともつかぬ絆を結ぶ日を夢見て、ハルは彷徨い続けていた。

孤高の女性哲学者、深海に触れる

05 ある日、ここあん大学の早稲田キャンパスで、ハルは校舎の入り口にてサークル仲間の岸辺義道と鉢合わせる。今日は受講する講義がないはずだと問われたハルは、気になる授業へ潜り込むつもりだと明かす。学問への情熱とは違う気配を感じ取った義道に自販機のそばへと引っ張られ、二人は他愛のない映画談義に興じる。手書きでシナリオを執筆しているハルを義道がからかうと、ハルは独特の思考を語り出す。「鉛筆と違って、消しゴムは消しカスが残る。消えたはずなのに有るって、不思議じゃない?」というハルの真面目な疑問に対し、義道は「焼き魚の骨や焼き鳥の串と同じゴミだ」とあっさり切り捨てる。噛み合わないままの軽口を交わして義道と別れたハルは、まだ見ぬ未知の講義、そして運命の出会いが待つ階段教室へと足を踏み入れていく。

06 対面授業が再開された大階段教室の最前列で、ハルは教壇に立つ女性講師に目を奪われていた。ノートをとるふりをしながらも視線は彼女に釘付けで、文字は何度も罫線からはみ出していく。最後列からその姿を見守っていた幼馴染の林太郎は、教壇の氷上静の姿を捉え、「今度の山はさすがに高過ぎる、いや冷えすぎか」と息を呑む。年齢不詳でありながら人工的な飾りのない、凛とした自然の輝きを放つその美貌に、林太郎もハルの執着を理解せずにはいられない。もし静が巨大な氷山なのだとすれば、その足元をうろつくハルはさながら極海の深海魚だった。林太郎は広げたノートの隅に二人の似顔絵を描き、ハルの脇に「深海魚」と書き留める。そしてしばらく考えたあと、「魚」の文字を二重線で消し、「氷山女に深海男か」と呟きながら「男」へと書き直すのだった。

07 講義室に響く氷上静の講義は、難解な哲学の理論をまるで優雅な外国の歌のように響かせながらも、凍てつく大地を吹き抜ける風のような鋭敏さを秘めていた。完璧な美しさを湛えながらも一切の笑みを浮かべない彼女の授業が終わり、他の学生たちが引き揚げる中、ハルは吸い寄せられるように教壇の「氷山」へと歩み寄る。怜悧な美神と視線が交わると同時に、ハルの心臓は激しく高鳴った。「あの、た、谷崎先生、少しよろしいでしょうか?」と声を震わせ、代講であることも知らずにシラバスの名前で呼びかけてしまう。さらに己の無計画さを呪いながらも、「ニーチェの『超人』についてのくだり、もっと詳しく教えていただきたいのですが」と勢いだけで食い下がった。静は道端の奇妙な石を見るような視線でハルを観察したあと、「来週の講義の前に、哲学科の研究室にいらっしゃい」と静かに告げる。

08 教室の最後列に残った林太郎は、静に臆せず話しかけるハルの姿を静かに見届けていた。頭の回転が速く、落語家のような独特の間と愛嬌を持つハルの魅力は誰にも真似できない。だが、彼がなぜそこまで冷たい女性の笑顔に固執するのか、幼馴染の林太郎にも理解できなかった。「雪の日ってのは、案外とあったかいものなんだよ」と笑うハルは、これまでも様々な「氷山」に登頂を試みては、「飽きられちゃうんだよね、俺って浅いから」と自嘲混じりに破局を繰り返してきた。どれほど美麗な山であっても、ハルの恋愛百名山が長く続いた試しはない。林太郎は、ノートに描いたハルと静の似顔絵の周りに、深海を高速で泳ぎ回る魚の軌跡を思わせる円を幾重にも重ねていく。傷ついてほしくないという微かな友情を込めながら、黒いペンの軌跡で二人の輪郭を塗り潰し、そっと目を伏せた。

09 一方、静かな邸宅へ帰宅した静は、一人紅茶を口にしながら学生時代の記憶を手繰り寄せていた。かつて「静御前」と呼ばれ、周囲から笑わない人間だと評されてきた彼女だが、決して感情がないわけではなかった。人生で確かに声を出して笑った記憶が、これまでに三度ある。小学生の時に父の書斎でフリードリヒ・ニーチェの哲学書に触れ、世界の真理に気づいて破顔した日。中学生の夕暮れ、ベランダから眺めた刻々と形を変える雲の厳かさと親しみやすさに圧倒された時。そして高校時代、敬愛する老哲学者の家で、居眠りする彼の肘に押されて落下しかけたコーヒーカップを、見事な反射神経で受け止めたときのことだ。床すれすれで器を救い上げた己の滑稽さに、自分でも驚くほど声を上げて笑ったのだ。「そう、笑わないことなんてない」と、静は静寂の中で自分に言い聞かせるように微笑んでいた。

10 約束の翌週、ハルは指定された哲学科の研究室を訪れる。室内で静が書類を整理する間、書架に並ぶ難解な原書を眺めていたハルは、無意識に口笛を吹いていた。「あなた、シューマンを聞くの?」と書棚の向こうから声をかけられ、ハルは母の影響だと慌てて取り繕う。机を片付け終えた静を前に、ハルは緊張のあまり「先生、超人になるにはどうすればいいんですか?」「先生も孤独を感じるんですか?」と無遠慮な直球を投げかける。噛み合わない問答が続く中、静は「孤独は思考を深める上で必要なものかもしれないわね」と静かに応じ、ニーチェとシューマンの音楽の結びつきを語りかけるが、身を乗り出すハルを見て「続きは、自分で調べなさい」と話を切り上げる。実は講義前、校舎前で消しゴムと消しカスの関係を熱心に論じていたハルの姿を偶然見かけていた静は、密かに彼に興味を抱いていたのだった。

11 研究室への出入りを正式に許されたわけではないものの、ハルは頻繁に静の部屋の扉を叩くようになる。静はいつ訪ねても独り静かに読書をしており、彼を追い払うこともしなかった。他の学生が提出する切り貼り細工のようなレポートとは異なり、ハルの純粋な問いは静の思索を心地よく刺激する。「先生は、どうして哲学を研究しているんですか?」と無邪気に尋ねるハルのまっすぐな瞳に、他者の視線を跳ね返しがちだった静の心も微かに揺れた。静は飾った模範解答を捨て、「この世界の意味を知りたい。自分自身とは何かを知りたい」と真摯に告げる。その問答は、かつて高校時代に老哲学者のもとへ通い詰めた日々の記憶を呼び覚まし、彼女の胸に不思議な懐かしさを灯した。一方のハルは、神託を授かったかのようにその言葉を噛み締め、いよいよ彼女の知性に深く惹き込まれていく。

12 病床の母を見舞った静は、珍しく一人の学生について語り始めた。「哲学の質問に来るのだけれど、彼の言葉が時々ね、深い海の底でかすかに光っている生き物みたいな」と微笑む娘に対し、母は「あなたが誰かの話をするのは珍しいわね。まとまらない話をするのも珍しい」と温かく応じる。ハルが残す言葉の数々を活字のように記憶しながら、何度会っても彼の顔立ちだけはぼんやりとして思い出せないと打ち明ける静。心の奥の何かを呼び覚ましてくれる存在なのかと母から問われると、「呼び覚ますというか、あれは、どこかで目覚ましが鳴っているくらいのかすかな音かな、まだ」と表現した。「素晴らしいことね」と手を握る母の前で、静は知らず知らず声を出して笑っていた。静謐な世界に投じられた小石が柔らかな波紋を広げるように、静の心の中でかすかな目覚めの予兆が揺らぎ始めていた。

水底に差す月光

13 研究室へ通い詰めるハルに対し、学生課で噂を聞きつけた林太郎から「いちゃいちゃし過ぎだ」と忠告が飛ぶ。しかしハルは「心配いらんのよ」とどこ吹く風で受け流す。実は静は大学教授ではなく、老権威である恩師・谷崎かおるの代講を務めていただけに過ぎず、母の看病のために大学を離れることになっていたのだ。キャンパスの茂みの奥で再会した静は、仕事を整理して自宅に籠もる事情を明かし、「私に聞きたいことがあれば、面倒でも家に来てもらうか」と告げて自宅の住所を紙に記す。連絡先の交換はきっぱり断られたものの、自宅への訪問という特権を得たハル。しかし、彼女という存在が自分の心にあまりに合致していたからこそ、ハルは関係が本格的に始まる前から、いつか訪れるはずの「いい終わり方」を想像しては一人鬱屈とした思いに囚われていた。

14 静の自宅を初めて訪ねたハルは、図書室のように書棚が並ぶ荘厳な書斎に息を呑む。静かな空間で、静は「ここでは、何て呼べばいいのかな。『あなた』や『キミ』でない呼び方がいいな」と静かに切り出した。ハルが「恋流波陽」と文字を書き、珍しい苗字ゆえに周囲からハルと呼ばれていると説明すると、静はあっさりと彼を「ハル」と呼び始める。対してハルが「僕は、先生のままでいいですよね」と伺いを立てると、静は「ハルの先生じゃないもの。『先生』はいやだな」と拒絶した。ならばとハルが「静さんって呼びます」と応じると、彼女は「いきなり名前なのね」と驚きつつも穏やかに許容する。人生の師を渇望していたハルは指導者としての壁を築かれつつも、一人の男として名前を呼ばれる特別な距離感に、戸惑いと誇らしさを同時に噛み締めていた。

15 以降、ハルは毎週のように静の書斎へ足を運ぶようになる。連絡先を交わしていないため、去り際にハル自ら次回の来訪日時だけを言い残して立ち去るのが恒例となり、その駆け引きのない潔さは静にとっても心地よい気楽さをもたらしていた。書斎で交わされる対話は他愛のないものばかりだったが、ある日、文字を書くハルを見て静が呟く。「ふうん、あなた左で書くの」。ハルが得意げに「うお座のO型の左利きという、生粋のロマン主義者です」と胸を張り、よく気づいたと感心すると、静は「私も左利きだから」と平然と返した。親近感を覚えたハルが「親指に傷があるんですよね。見ますか?」と差し出そうとするも、静は冷たい視線と掲げた手のひらで厳然と制止し、ハルを苦笑させる。平均台の上を疾走するような危うさを孕みながらも、二人の対話は確かな熱を帯びていた。

16 毎週の訪問が定着した書斎で、ハルは突然「昨日見た夢の話してもいいですか」と切り出す。それは、地面が揺れて暗い海の底へ沈んでしまった移動図書館車「かんた」の物語だった。隣に横たわる母の車に呼びかけても返事はなく、現れた魚の群れにも「お前たちは本を読まないだろう」と告げて背を向けるかんた。やがて海底で「かなしみのふた。開けてはいけないよ」という母の戒めの声を聞くところで話は途切れる。突飛な童話のような告白に、静は「さかなたちに冷たいのはハルらしいわね」と皮肉を交えつつも、真剣に耳を傾けた。そして、夢は心の奥底にある意志や力を象徴するものだと説き、古い価値観を問い直して新しい自己を生み出す契機になるかもしれないと告げる。ハルが差し出した無防備な無意識の欠片に、静の知性は優しく寄り添っていた。

17 翌週、ハルは自ら創作した夢の結末を携えて書斎を訪れる。勇気を出して開かれた「かなしみのふた」の奥へ進んだかんたが、眩い光に包まれて真の安息を得る結末を聞き届け、静は「切ないけれど、あたたかい。優しい。ハルらしい、ハッピーエンドね」と微笑んだ。二人はニーチェの説く理性と情熱の相克を交えながら、海底の孤独と寂しさの違いについて飽くことなく語り合う。他愛のない対話の最中、静はハルの瞳を真っ直ぐに見つめ、「なぜだろう、ハルは知っているのかもしれない。海の底に届く月の光の輝きを」と口にした。その言葉はハルの心の深層へ染み渡っていく。誰にも共有できないはずの孤独な夢が確かに通じ合った充足感を胸に抱き、ハルが去った後の静寂の中で、静もまた手にした紅茶の温もりとともに彼の余韻を反芻していた。

18 雨の降る日、静は母の病室を訪れ、窓を伝う雨垂れを眺めながらシューマンの『トロイメライ』を口ずさんでいた。母とクラシックの話題を交わすうち、静はハルが初めて研究室を訪れた際、口笛で同じ『子どもの情景』の中の『十分に幸せ』を吹いていたことを打ち明ける。「なんだかね、ほんと幸せな子っているんだなって。実際、幸福なのかどうかは知らないけれど、幸せ」と語る静。どんな人間なのかを言葉で捉えようと、「マイペース、お気楽、無邪気、夢見がち。うまく言えないのがくやしいの」と珍しく熱っぽく言葉を重ねる娘の姿に、母は楽しげに目を細めた。他人の話をこれほど夢中になって語る静の姿は、母にとっても初めて見るものだった。普段の冷静さを忘れ、思わず大きな笑顔をこぼす静の胸の内には、ハルの持つ無垢な光が確実に息づき始めていた。

19 静の自宅リビングで、国立女子大附属高校時代からの友人たちとの恒例のポーカーの集いが開かれる。集ったのはオペラ歌手の京子、ドイツ文学翻訳家の佐和、建築家の環という、確固たる知性と自立心を持つ面々だった。ゲームの合間、静が「最近、少し年の離れた学生とよく話すの」と何気なくハルの存在を明かすと、環は彼を「シューマン君」と命名する。さらに京子がシューマンの交響曲第一番の副題が「春」であることに触れ、佐和もドイツ語でハル(Hall)が「響き」を意味すると知的な連想を広げていく。「響き合う心、かしらね」と面白がる友人たちの分析に、静は知的な面白さを覚えつつも、胸の内に言い知れぬ居心地の悪さを感じていた。自分にとって大切な、まだ名付けようのない感情を軽々しく解剖されたような不快感に、静は手元のカードへそっと目を落とした。

20 冬晴れの国立競技場、大学ラグビー選手権決勝のスタンドに静の姿があった。ウールメルトンのダッフルコートに身を包み、臙脂色のユニフォームの選手が蹴り上げたボールの美しい放物線を見つめながら、静はハルとの曖昧な日々に思いを馳せていた。友人とも恋人とも呼べない年下の彼と紡いできた時間は、静の頑なな心をほぐす一方で、未知の戸惑いをもたらしている。ハーフタイム、背後の若者たちが「けりをつける」の語源をボールのキックだと勘違いして騒ぎ立てる声が耳に届いた。古語の助動詞「けり」から生じた本来の意味を思い、静は小さく微笑む。しかし同時に、その俗っぽい「蹴り飛ばす」という響きが、彼女自身の胸中を鋭く突いた。この心地よくも不確かな関係性に安住せず、自らの心にけりをつけて前に進まねばならないという焦燥が、冷気の中で静かに疼いていた。

21 書斎での逢瀬を重ねる中、ハルは意を決して急用時の連絡手段を尋ねる。静は穏やかに「そろそろ、メールアドレスを教えるべきかしらね」とスマートフォンを取り出した。しかし画面を差し出す彼女の表情は珍しく落ち着かない。そこに並んでいたアカウント名は「哲学少女007」という、怜悧な学者肌の印象からは想像もつかない愛嬌に満ちたものだった。ハルは思わず吹き出し、「秘密の暗号みたいで面白い」と相好を崩す。連絡先を交わし、別れ際に「何もなければ送らない」と釘を刺す静へ、ハルは「スマホから離れられません」と冗談めかして応じる。だが胸中では、静からの報せを待ち望む自分自身に危うさを覚えていた。楽しみは執着を生むという幼少期からの痛烈な戒めが、心地よい高揚感の裏で微かな警鐘を鳴らし始めていた。

22 母の容態が落ち着き連絡のない日々が続く中、ハルは思い切って「外で会いたい」と申し出る。静は「それはデートということね。いいわよ。でも、どうせ会うなら、素敵なものにしたい」と快諾した。彼女の美意識に見合う場所を決めあぐねるハルをよそに、静が指定したのは、ここあん区役所最上階の展望カフェだった。見晴らしの良さ以外はごく平凡な店内で、西日を眼鏡に反射させながら言葉を交わす静の横顔は、いつになく生き生きと映る。二人は展望窓から暮れゆく街を眺め、ハルはかつてない親密さを噛み締めた。だが「五時には家に戻らなくてはいけないの」と静は定刻で席を立ち、地上へ降りると淡々と歩み去っていく。何かが劇的に変わるのではないかという淡い期待はあっけなく霧散し、ハルはどれほど話しても満たされない己の渇望感に立ち尽くすのだった。

23 帰宅したハルの頭を占めていたのは、区役所で別れた静の後ろ姿だけだった。彼女の前では作為的な冗談を用意せずとも、思考と言葉が摩擦なく滑らかに溢れ出してくる。サークルの仲間を喜ばせるための道化とは全く異なる、魂の純度が高い対話の喜び。しかし満ち足りた思い出が増えるほど、彼の胸には重い影が落ちていく。この心地よい時間は細い平均台の上を疾走しているかのようで、一歩踏み外せば二度と戻れない場所へ転落してしまうのではないかという恐怖。些細な沈黙や言葉の行き違いで、静が何の前触れもなく自分の前から消え失せてしまうのではないか。冷たい心を溶かす、笑顔を引き出すなどと豪語していたかつての自分が滑稽に思え、ハルは己の底の浅さに苦い溜息を吐き出すしかなかった。

24 同じ頃、用事を終えて書斎で読書に戻った静の脳裏にも、別れ際にハルが見せた影のある表情が鮮やかに焼き付いていた。かつてこれほど無防備に自らの領域へ踏み込んできた人間はいなかった。人生経験の浅い若者でありながら、ふとした拍子に思考の核心を突き、長年閉ざしていた感情を軽やかに解き放っていくハル。静にとって孤独とは呼吸と同じ不可欠な静寂だったが、彼はその世界へ爽快な風のように吹き込んできた。それは書物で学んだいかなる恋愛とも異なり、深海の未知なる海溝へ滑り落ちていくような、静謐で濃密な魂の交わりだった。彼との対話は、乾いた心に染み渡る一滴の雫に等しい。孤独を糧に生きてきた二つの魂が、互いに異なる道筋を辿りながら、奇妙な共鳴を響かせていた。

25 数か月の空白を経て、ハルは緊張に身を強ばらせながら再び静の書斎を訪ねる。かつて毎週のように軽口を交わしていた時間が、まるで幻の奇跡のように思えてならなかった。静の凛とした佇まいに強く惹かれながらも、なぜ知識も経験もない自分のような学生を招き入れてくれるのか、ハルは拭えぬ劣等感と疑念に苛まれていた。自分にとって完成された理想の存在である彼女は、未熟な自分と関わることで何一つ得るものがないのではないか。お互いを高め合えない関係なら、いずれ破綻を迎えるのではないか。その不安ゆえに、かつてのように屈託なくからかうことすらできない。迷路の底で道を探すように苦悩するハルを前に、静もまた穏やかに見守っていた。青年の心の痛みを敏感に感じ取りながら、溢れる思いをいかに言葉にすればよいのか、彼女もまた初めての沈黙に佇んでいた。


凍てつく大地の果て、
天空の王座に、月が君臨する。
その威光は、氷河を従え、
海原を睥睨し、深海へと手を伸ばす。
光は、まるで神の指先のように、
静かに、しかし力強く、闇を切り裂く。
何億年もの間、
太陽の光さえ届かぬ深海に、
月は、慈悲の光を注ぐ。
海底の砂は、光の粒子を浴びて、
微かに震え、生命の鼓動を始める。
それは、人知を超えた、
壮大な自然の交響曲。
月の光は、深海の孤独を照らし、
永遠の静寂に、一筋の希望を刻む。

深海への献光

了

作・千早亭小倉

●登場人物
氷上静

氷上静|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:氷上静(ひかみ しずか)年齢・性別:35歳・女性肩書:ブックカフェ『シズカ』店主/私立ここあん大学哲学科講師(休職中)家族・パートナー:母・氷上冬子、パートナー・中野小春湖畔に佇むブックカフェ『シズカ』を営む女性。「氷山女」と称される…

恋流波陽

恋流波 陽|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:恋流波 陽(こひるは はる)年齢・性別:20代・男性肩書:ここあん大学大学生(ストーリーによっては大学院生?)ここあん大学の学生であり、のちに劇団「かもかも」の主演俳優となる青年。一浪しているため、幼馴染の聖林太郎や南ちづるより学年は…
スピンオフ(地層3、3・5、4)
  • 箱庭コント245「挨拶の現象学的還元」
    箱庭コント245「挨拶の現象学的還元」

    かつて氷上静ひかみしずかと恋流波陽こひるははるの間にあったヒリヒリとした緊張感は、中野小春という存在を経ること…

[コント台本・掌編 約600本]

主な舞台は、椎名町三丁目から広がる箱庭「ここあん村」。箱庭コント作家・千早亭小倉の手による、どこか懐かしい日常劇やクスッと笑えるコメディ、沁みる掌編を絶賛公開中です。これからも「読むシットコム」の世界を追究していきます。
*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI. *引用の範囲を超える無断転載・複製を禁じます。 Copyright © 2025-2026 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

[コント台本・掌編 約600本]

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箱庭小説(掌編・スケッチ)
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