【登場人物】
平泉 慧:ここあん大学大学院生。理論物理学専攻。エネルギーの無駄を極端に嫌う省エネ主義者。花野環奈と同学年だが、花野のことを「環奈様」と呼ぶ。
花野 環奈:ここあん大学大学院生。古生物学専攻。万物を時間と地層で捉え、汚部屋を地層と呼ぶ変人。
【場面設定】
初夏。ここあん大学早稲田サテライト3号館地下1階の裏手にある、古い赤レンガの壁と雑草が生い茂る小さな中庭。日陰のベンチでふたりが並んで座っている。

平泉慧:環奈様ぁ、私、炭酸水を買いに行きたし。
花野環奈:行けばいいじゃない。すぐそこだし。
慧:ただ歩くだけなら簡単よ。でも、自販機は、見ての通り、草むらの先。この夏の強い日差しと、生い茂る雑草の抵抗。それらを考慮すると、普通に進むのは熱力学的に大いなる損失だわ。
環奈:また始まった。平泉さんの、めんどくさいやつ。
慧:めんどくさくない。炭酸水を買いたいという欲望が、今日は勝っている。だから、私は今から、衣服の摩擦を極限まで減らし、1歩あたりのカロリー消費を最小にする、完璧なショートカットルートで前に進むことを決めたの。
環奈:要は、あそこまで行くということね。平泉さんじゃないみたい。でも、大丈夫? そこの茂み、なんだかすっごい緑くさい。Green Leaf Volatilesそのものだよ。
慧:「緑の香り」と呼ぶには、禍々しくさえある。
環奈:草の葉が、風の摩擦や虫に食べられて傷ついたときに、瞬時に出す化学物質の匂いだね。
慧:傷口から出る、SOSの匂い。それなら、なおのこと、植物をこれ以上刺激しないための、優しい歩行プロトコルが必要。
(慧、立ち上がり、つま先をわずかに内側に向けた独特の姿勢をとる)
慧:行くわよ、環奈様。私の足跡を、髪の毛一本分のズレもなくトレースして。
環奈:え、私も? はいはい。
(慧、ゆっくりと、しかし不自然なほど直線的に、草の葉を避けるように一歩を踏み出す)
慧:まずは一歩。左のシダの葉に対して、進入角度は15度。これで葉の表面を傷つけずに、妙な香りの発生を、未然に防ぐ。
環奈:うん。でも、平泉さん、思い切り踏んづけてるよ。その足元。
(鈍い、プチッという音が響く)
慧:想定内の、観測誤差。
環奈:うわ、一気に匂いがきつくなった。なんだか、刈り取ったばかりの芝生の中に顔を突っ込んだみたいな、強烈な青臭さ。
慧:ただの青葉の香りよ。植物の細胞が壊れて、大気中に放たれただけでしょう?
環奈:でもこれ、ただの青い香りじゃないよ。
慧:どういうこと?
環奈:植物の、警戒警報。葉を食べられた草が、周囲の仲間に「もうすぐ敵が来るぞ」って伝える、情報戦の始まり。風下の草は、実際に食べられる前に、もう戦う準備を始めてるの。
慧:風下……私たちが向かってるほうじゃない。環奈様ぁ、それってどうなるということ?
環奈:虫の天敵、ハチを呼ぶ。ボディーガードの要請ね。
慧:合理的な生存戦略。そのハチが、私たちの頭の上に今から飛んでくるってこと?
環奈:言ってるそばから。これは、ハチの羽音?
慧:ハチの接近は、私の計算モデルに組み込まれていないわ。
環奈:ハチって言ってもコマユバチだよ。体長数ミリの。
慧:(環奈の話を聞かず)歩行スピードを2倍に加速して、次のエリアへ遷移する。
(慧、慌てて歩幅を広げ、雑草の茂みへ深く突入する。バサバサと草が擦れる音)
環奈:待って。そっちはだめ。その、白くて真ん中が赤い花が咲いてる細いツル。
慧:ただの、野生のツル植物でしょう? 物理的な強度は低いはず。
(慧、ツルを踏みちぎりながら突き進む)
環奈:違うよ。それ、ヘクソカズラ。
慧:へくそ? うっ、なに、どぶ……、いえ、言うも憚られるような臭い。
(一瞬で、ふたりの周辺に、硫黄のような強烈な刺激臭が立ち込める)
環奈:うわ、すごいね。鼻の奥にツンとくる。これ、抗菌作用と食害防止の直接防衛だよ。虫や動物に「これ以上食べるな」って諦めさせるための、完璧な化学兵器。
慧:あ、悪臭の、放出による、生命の、自己防衛、としての、正しい、設計、ね。
環奈:正しいけど、平泉さん、服の裾にその汁、べったりついてるよ。
慧:洗えば、落ちる。
環奈:落ちないよ。その硫黄の成分、繊維の奥までがっちり染み込むから。明日もその服、その臭いがするよ。
慧:……。
環奈:それに、あそこの白いシイの木。
慧:な、何かしら。
環奈:ハエとかアブを呼ぶための、腐った魚みたいな生臭い匂いを、あえて全力で放ち始めてる。
慧:生殖戦略? ハチやチョウだけじゃなく、ハエまで呼んで受粉させるために、芳香を使い分けられるということ?
環奈:使い分けって言うか、生臭いだけだけど。中庭全体が、魚市場のゴミ捨て場みたいになってきた。
慧:行ったことがないのでわからないけど、頭が、真っ白になってきたわ。
環奈:私も。植物たちが、ハチとかハエとか、隣の草とかと、大音量で叫び合ってるんだもの。化学物質の、大合唱?
慧:合唱というか、大戦争だね。私の、完璧な省エネ歩行ルートが、自然の法則に蹂躙されていく。
環奈:あ、ハエが、平泉さんの鼻先をかすめた。ブーンって。
慧:環奈様ぁ、もう私、限界。
環奈:限界?
(慧、なりふり構わず、手足をバタつかせながら中庭を全力で走り出す。泥が跳ね、レンガの壁に激突しそうになる)
環奈:あ、平泉さん、そっちはだめ。
(ベチャッ。慧、ぬかるんだ土に足を取られ、膝をつく)
慧:ハエと、どぶの臭いと、泥! 最悪。
環奈:私は、この中庭の泥臭い大戦争、数億年前の地球のスープの匂いがして、ちょっとワクワクしちゃった。
慧:(ため息)あの地下室の、薄暗くて冷たくてカビ臭い日陰が、いまたまらなく愛おしく感じられる。
(自販機の前。ここあん高校文芸部長の黒崎文が、日傘を差し、自販機から紅茶の缶を取り出している。そこへ、草を押しのけ、慧と環奈が現れる)
文:あ、平泉先輩、環奈先輩。奇遇ですね。
環奈:黒崎さんじゃない。どうしてここに?
文:あ、ここでしか売ってない紅茶飲料があるんです。
慧:どうやってここまで。ハエと、毒ガスと、植物の情報戦をくぐり抜けて?
文:普通に敷石の上を歩いてきましたけど。3秒で着きますよ。敷石すらまともに歩けないなんて、おふたりとも、物理的な空間認識能力をどこかに置き忘れて育ったんですか?
慧:っ!
文:それにしても、いいですね、この中庭。むせ返るような、生命の熱気。まさに「草いきれ」。夏の季語そのままの情景で、なんだか詩的な気分になります。
慧:く、草いきれ? そんな、風流な言葉で片付けられるような、生温い現象ではないわ!
環奈:そうよ。これは、細胞膜の破壊によるアルデヒドの放散と、硫黄化合物の直接防衛と、送粉者の誘引が生み出した、凄惨な化学戦争の現場よ!
文:先輩方、それを昔の人は一言で「草いきれ」って呼んだんですよ。ここあん大学院生が大好きな、無駄に長い理系用語の濫用を、たった5文字で綺麗にパッケージングしてくれるなんて。深いですよね、日本語って。
慧:ぐるるるるっ。(犬のような声を出し、自販機の前に突っ伏す)
環奈:ほら、立って。炭酸水、買ってあげるから。
(幕)
作・千早亭小倉






