【登場人物】
矢尾リリカ: ここあん高校の生徒。高度な知性とシニカルな視点を持つヒロイン。安部公房を愛読。
ショパン: リリカのクラスメイト。小太りのクラシックおぼっちゃまくん。リリカの衒学的な悪ふざけを理解し、理屈で受けて立てる相棒。
青野 音: ジャズバー「サウンドブルー」のオーナー。物腰柔らかな聞き上手だが、店の技術や事実には妥協しない。
【場面設定】
ここあん村成城が丘のジャズバー「サウンドブルー」のカウンター。ステージではピアノトリオが静かに演奏している。

ショパン:(耳を澄ませ、グラスを揺らしながら)今の、聴いた? 三小節目の裏拍、右手。ショパンのノクターン第十三番の和声を拝借しようとして、運指が追いつかずにFシャープをナチュラルで叩いたよね。
矢尾リリカ:(冷めた目でステージを一瞥し)でも、そのあとの冷や汗を拭う仕草と、ドラマーの見て見ぬふり。完璧な演奏より、よっぽど人間的。そして、滑稽。あれこそが今夜のハイライトよ。
ショパン:そこまで言う? 失敗という不確定要素を、即興芸術の生々しさとして愛でるわけだ。リリカらしいね。
リリカ:(手元のグラスを覗き込み、低く呟く)そう。人間なんて、不確定な穴に落ちて生きている生き物よ。安部公房の『砂の女』みたいに。この氷に空いた穴も同じ。光は差しているけれど、決して出口じゃない。氷が溶けて水位が上がったら、私はここで静かに溺れるの。
ショパン:(吹き出しそうになりながらリリカを見る)文学的なのはいいけど、アルキメデスの原理まで無視するのはちょっと。水に浮いている氷が溶けても、グラスの水位は1ミリも上がらないよ。それに、穴ってどこの話だい?(グラスを持ち上げて、照明にかざす)
青野 音:(氷を拭く手を止め、穏やかな声で会話に加わる)リリカさん、うちの氷、氷屋さんから仕入れた純氷の角柱を、私がアイスピックで砕いてるのよ。穴があいていたら、教えてね。
ショパン:(眼鏡の位置を直しながら)君が閉じ込められる砂穴は、最初から存在しなかった。
リリカ:(わずかに視線を泳がせ、すぐに何食わぬ顔で姿勢を正す)無粋ね、ふたりとも。物事は、綻びがあるからこそ愛おしいんじゃない。最初から寸分の狂いもない演奏なんて、ロボットが握ったお寿司と同じよ。美味しいけれど、握った人間の絶望の味がしないわ。氷だってそう。
ショパン:確かにね。溶けやすい氷は、絶望の味がしそう。だから、さっきのリリカのこじつけも、僕とママで、人間味あふれる失敗として愛でてあげるよ。
リリカ:なによ、もう!(音に向き直り、澄ました声で)ママ、お代わりをちょうだい。このおぼっちゃま君の口を物理的に塞ぐやつを。
音:(静かに微笑んで一礼し)ただいま。麦茶のロックに、穴のない、確かな重みの氷をもう一つ浮かべてくるわね。
(幕)
作・千早亭小倉





