掌編「お菓子どうどうめぐり」

活田町のライブハウス「ガーデンガガガーデン」の楽屋は、人の匂いがした。ステージの狂騒を吸い込んだアンプが、沈黙のうちに熱を放っている。床には無数の靴跡と、黒いシールドケーブルが力なく転がっていた。誰かが、込み上げる感情を唾と一緒に飲み下す音が、やけにクリアに聞こえた。

「……はぁ」

うたまろが、壁に背中を預けたまま床に座り込み、長い溜息を吐き出した。ボーカルの彼女の声は、今日のライブで酷使したせいで、心地よくハスキーに掠れている。だが、その物理的な痛みより、客席の空気に満たされなかった悔いが、心の奥のほうにじわりと広がっていた。長い前髪の隙間から覗く瞳は、虚空を彷徨っている。

「やめてよ、ボーカルのため息は、それでなくても、心に沁みるんだから。今日のうたまろ、鬼気迫ってたよ!」

キーボードのひくえが、床に落ちていたドラムスティックを拾い上げ、天真爛漫な声で言った。その明るさは、この倦怠感が支配する楽屋では、かなり浮いて聞こえる。

「たたこー、またスティック落としてる。大事な商売道具でしょ」

ドラム担当のたたこは、部屋の隅でヘッドフォンを耳に押し込んだまま、スマホの画面に没頭している。彼女の脳内では、おそらく壮大な物語の続きが繰り広げられており、ひくえの声は届いていない。

ギターのいときちが、愛用のテレキャスターを丁寧にスタンドに置く。コツン、という硬質な音が、場の空気を引き締める。

「私たちには、感傷に浸ってるひまはないんだよ?」

いときちの視線が、静かにメンバー一人ひとりを捉えた。その声には、苛立ちよりも切実な響きが混じっている。

「ねえ、まずは、『栗きんとん99』。私たちの名前、そろそろ見直さない?」

「え、美味しいじゃん、栗きんとん」

ひくえが、純粋な好奇心で言葉を返す。いときちは、一瞬言葉に詰まった後、静かに続けた。

「味の話じゃない。私たちの音楽と、この名前が、本当に合っているのかって話」

「あー、言いたいことはわかるかも」ベースのべんべんが、リップクリームを塗りながら会話に加わる。甘いストロベリーの香りが、汗の匂いに混じった。「もっとシャープな名前の方が、今の曲には合うんじゃない? 対バンのウケとかも変わるよねえ」

「名前なんて、どうでもいい……」うたまろが、膝を抱えたまま呟いた。「どんな名前でも、私たちの音は、私たちの音だよ」

「そうやって、いつまでも同じ場所をぐるぐる回るの?」いときちの言葉が、うたまろに突き刺さる。

いときちがバッグから、少しだけ湿った和紙の包みを取り出す。先日、実家から送られてきた荷物に入っていたものだ。

「『丸ぼうろ』。例えば、だけどさ」

彼女が広げた包み紙には、素朴で、どこか懐かしい文字が印刷されていた。

「まるぼうろ……」ひくえが、その音を口の中で転がす。「なんか、優しい味がしそう。おっぱいっぽい感じ」

「おっぱいって……。それなら、もっとインパクト重視でしょ。九州縛りなら、『鶏卵素麺』とかさ」べんべんが、スマホで検索した画像を見せる。ざらっとした糸を寄り集めたような黄金色の菓子が、画面の中で艶めいていた。

「けいらんそうめん……」うたまろが、初めて顔を上げ、べんべんのスマホまでずって近づいてきた。

「……綺麗。作るの、すごく手間がかかりそう」うたまろが、鶏卵素麺の画像に見入ってつぶやく。

「じゃあ、『丸ぼうろ角砂糖』とかどう? あっ、『黄身鶏卵、ぼく素麺』も、よくない?」ひくえが、はしゃいだように笑い声を上げる。その横で、たたこが不意にヘッドフォンを外し、立ち上がった。

「……なに、あんたたち、お菓子の話してる?」

「ちゃいます。バンド名、どうしようかなって」ひくえが説明すると、たたこは「ふーん」と興味なさげに軽く相槌を打ち、楽屋の隅にあるオーナーの私物らしきギターケースを指差した。

「あのケース、半開き。猫、入るかな」

「あんたの頭の中は、猫とゲームばっかりだね」いときちが呆れたように呟いた、その時だった。

「ねえ」

それまでバンドの将来の話には虚ろな相槌しか返さなかったうたまろが、まるで何かに導かれたように、すっくと立ち上がった。彼女の瞳には、先ほどまでの諦観の色はない。

「『栗きんとん』ってさ、すごく手間がかかるんだよ。一つ一つ、丁寧に裏ごしして、時間をかけて練り上げて。そうしないと、あの滑らかな舌触りと、上品な甘さは出せないんだって」

彼女の言葉に、全員が視線を向ける。

「私たちの曲も、そうじゃない? いときちが何度もリフを練り直して、べんべんがグルーヴを探って、たたこが正確なビートを刻んで、ひくえが彩りを加えて……。そうやって、やっと一つの形になる。……ダサいと思ってたけど、案外、私たちにぴったりなのかもね。『栗きんとん99』」

うたまろは、そう言って笑った。

「えええ、ダサいと思ってた、って?」いときちは、そう言いかけて、うたまろの表情を見て、やめた。ライブ会場のファンたちを一発で虜にする、うたまろのいたずらっぽい笑顔にはだれもかなわないのだ。いときちは、ぷいと顔をそむけたが、口元には微かな笑みが浮かんでいた。

「まあ、名前負けしないようにしないとね」たたこが、スマホをポケットにしまいながら言った。

「よーっし! じゃあ、次のライブに向けて新曲会議!」

「ラブちゃんのところで手羽先食べながらやろ!」

べんべんとひくえの声が、楽屋に残った熱気の残滓を快活な色に変えた。

栗きんとん九九。バンド名は、まだ変わらない。

そして、何が九九なのか、メンバーは気にならないようだった。

(了)

作・千早亭小倉

●このお話が収められている本(Kindle版)の紹介
※上掲の掌編は、「砂糖菓子の墓標」を改題したものです。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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栗きんとん99
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