【上演設定】
場所:きさらぎタウン、天野家のリビング。
登場人物:
天野光(娘。バスケ部の練習帰りで汗だく。息が上がっている)
空野円(母。ソファで静かに本を読んでいる。季節感のないゆったりとした衣服)
状況:外は猛暑。室内のエアコンは、生ぬるい送風をかすかに吐き出しているだけである。
光:お母さん、エアコンの設定、下げていいかな。
円:(本から目を離さず)リモコンはあなたの目の前です。下げるという行為を、私が止める理由はありません。
光:でも、お母さん、長袖着てるし。寒くないかなって思って。
円:寒さは、皮膚が外気との境界を必死に主張している摩擦熱に過ぎません。私は今、世界との境界を持っていませんから。
光:……そっか。すごいね。お母さんはいつも通りだね。じゃあ、下げるね。(リモコンに手を伸ばす)
円:ただ、あなたが温度を下げるのは、自分の内側にある熱を持て余しているからです。熱は、何かに執着している証拠。それを人工的な冷気で押さえつけようとしても、根本的な解決には至りませんよ。
光:……部活帰りだから、物理的に体温が上がってるだけなんだけどな。
円:物理、ですか。あなたはまだ、肉体という重い器の言いなりになっているのですね。エントロピーの増大に抗おうとするから、汗という無駄な水分を流すことになるのです。
光:……(リモコンから手を離す)いいよ。お母さんがそういうなら、このままでいいよ。全然平気。
円:無理をする必要はありません。あなたが涼しさを求める欲望を、私は否定しません。ただ、そこにあると指摘しただけです。
光:違うよ、無理してない。お母さんの言う通りだなって思ったの。執着を捨てるのが大事だよね。私、汗かくのも好きだし。この部屋の生ぬるさ、全部受け入れるよ。私にとって、すごい良い経験になると思う。
円:……あなたの顎から、フローリングに汗が滴り落ちていますよ。
光:あ、ごめん。(足の裏で汗をこすりつける)これも、私がここで生きてるってことだよね。床が私の熱で少し濡れるのも、悪くないっていうか。
円:あなたのその肯定は、乾いた川の底で必死に舟を漕いでいるようなものです。見ていて、とても息苦しそうですね。
光:ううん、全然。お母さんがそう言ってくれるなら、私、水がなくてもどこまでも漕げる気がする。ありがとう。
円:……そうですか。では、私はお茶のおかわりを淹れてきます。あなたは白湯でいいですか。
光:うん、白湯、最高だね。沸騰したお湯、私の中に全部入れて。この暑さごと、ぐちゃぐちゃになるまで飲み込むから。
円:(立ち上がりながら)やけどには気をつけてくださいね。
光:(額から滝のように汗を流しながら、虚空に向かって微笑み続ける)
(幕)
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/01/tops2.jpg)

