
「浅い。絶望的に浅いわ」
黒崎文は原稿の束を長机に投げ捨てた。滑った紙の束が、神崎一樹の肘を叩く。
「ホームから涙ぐんで見上げる彼女を、真っ直ぐ見つめ返す? 言葉の上澄みだけをすくったような薄っぺらい感傷。別れ際にこんな綺麗な絵面になるわけないでしょ。泥水すするような情念が足りないのよ」
「いや、情念の問題ではない」
堂島巧は、手元の三角定規をプリントアウトされたA4用紙に押し当てた。
「物理的な破綻だ。そもそも『見上げている』という大前提が間違っている」
文が眉根を寄せる。一樹は小さく息を吐いた。
「間違っている?」
「この小説の時代設定は現代だ。となれば、このシーンは現代の駅ということになる」
「当たり前だ」
「そう、当たり前でなければならないのだよ」巧はそう言うと、原稿の余白を指でなぞった。几帳面な字で計算式が記されている。
「現代のホームの高さは1100ミリだ。ホームとほぼ同じ高さの床面と座席の高さを考えれば、車内で座る主人公の目線は1900ミリといったところか。対して、ホームに立つヒロインの目線は2650ミリ」
そう言って、巧は75という数字をシャーペンの先で丸く囲んだ。
「つまり、ヒロインの方が75センチも高い位置にいる。彼女は主人公を見上げることはできない。物理的に『見下ろす』形になるのだ」
一樹が「あ」と小さく声を漏らした。
「さらにだ」巧は容赦なくシャープペンシルで紙を叩く。「車内の主人公が『真っ直ぐに見つめ返した』とあるが、一樹の書きぶりでは、主人公の視線の先にあるのはヒロインの瞳ではない。胸の谷間だ」
文が目を丸くした。
「悲劇的な別れのシーンで、主人公は女の胸元を凝視していることになる。読者は確実に主人公の人間性を疑う」
「最低」
文が一樹をねめつけた。
「別れ際に女の胸元をガン見する主人公。情念どころかただの欲望の塊じゃない。気持ち悪いわ」
「違います。僕はそんなつもりじゃ……」
一樹が机に突っ伏す。右からは文学論、左からは空間設計。二つの刃が一樹の背中を刺す。
巧はシャープペンシルを置き、目を伏せた。冷たいパイプ椅子の感触が背中をなぞる。
母親に連れ出された休日の午後。公民館の一室で開かれた「プロが教える朗読講座」。小学生の巧でも知っているテレビドラマを数多く手掛けた演出家がマイクを握っていた。
『きちんとした小説家は、部屋の広さ、登場人物の立ち位置、視線の高低差などを織り込んで小説を書いている。本を読むならば、さらに、それを人前で朗読するならば、客車とホームを歩く駅員との視線の高低差、時代による変化すらも織り込まなければならない』
平坦な文字の羅列が、頭の中で急速に立ち上がる。圧倒的な三次元空間の設計図。母親の規則正しい寝息が隣で響く中、少年は身を乗り出した。見えない空間の魔法。駅のホームの高さ。それこそが、巧が空間の虜になった原点だった。
今日、一樹の原稿が奇しくもその起源に触れた。だから巧はいつも以上に引かなかった。己の全存在をかけて、この矛盾を正す必要があったのだ。
ホワイトボードの前に立つ巧の腕が動く。マーカーが甲高い音を立てた。
「そもそも、これが明治時代の高さ760ミリのホームであれば話は別だ。明治時代の女性らしくやや小柄にすれば目線の差は26センチ。主人公は『少し見上げる』だけで視線が交わる。窓越しに愛を語るには最適な高低差と言える」
巧は真顔で明治期の客車の断面図を描き始める。
「だから今は登場人物の魂の……」
文が両手で机を叩く。巧の耳には入らない。
「しかし一樹、お前は現代の底上げされたホームを設定している。物理法則を無視した描写は欺瞞だ」
「もうそこはいい!」
文の怒声と巧の物理解説が、決して交わることなく部室の空気をかき回す。一樹は耳を塞いで机と同化している。
そのとき部室のドアが開いた。C組の鴨下栞が、紙パックの紅茶にストローを差したまま立っている。栞は、数式と断面図で埋め尽くされたホワイトボードと、怒り狂う文、突っ伏す一樹を冷めた目で一瞥した。
「ねえ、まだかかるの?」
栞がストローを咥える。
「先生が、もう帰れって言ってるわよ」
下校時刻の通達。極めて事務的な響きが、部室の熱を強制的に冷却した。栞が紅茶を吸い上げる音が、静まり返った部屋に響く。
巧はホワイトボードの断面図から振り返り、机と同化している一樹を見下ろした。
「一樹、時代設定を明治にするというのはどうだ。そうすれば目線の矛盾はすべて解決する」
「え、それは……」
一樹がわずかに顔を上げる。
「ない、ないわよ」
文が即座に手を振って切り捨てた。
「主人公の仕事はシステムエンジニアでしょ。ヒロインはマッチングアプリで出会った設定だし」
「よくわからないけど、ないわね」
栞が空になった紙パックを軽く潰しながら、平坦な声で同意した。
(了)
作・千早亭小倉
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