【登場人物】
丹波りん:パティスリー「タンバリン」店主。合理性と冷徹な美学を持つ職人。
朝霧沙緒:作家。物事の裏側にある「湿り気」を敏感に察知する女性。
【場面設定】
閉店間際の静かな店内。西日がショーケースの残骸を長く引き延ばしている。

丹波りん:あら、いらっしゃい。もう、そのモンブランと、端っこが少し乾き始めたオペラしか残っていないけれど。
朝霧沙緒:いいわ。その、死に損ないみたいなオペラのほうを一つ。ここで食べていっていい?
りん:どうぞ、お相手はできないけれど。紅茶はアールグレイでいいかしら。
沙緒:おかまいなくって言いたいところだけど、ほしい。お願い。
りん:ふふ、素直ね。少し癖があるかも。
沙緒:よく言われる。
りん:違うわよ。紅茶のこと。
沙緒:ねえ、このオペラの層、なんだか古い地層みたいね。重なり合って、押し潰されて、何も言えなくなった記憶の積み重ね。
りん:あら、素敵な表現ね。でも、ただのバタークリームとガナッシュよ。それ以上でも、以下でもないわ。
沙緒:丹波さんのケーキは甘さの中にトゲがある。喉を通る時に、少しだけ傷がつくような、そんな感じがする。そこが好き。
りん:私の「毒」。甘いだけで終わらせたら、食べた後に何も残らないでしょう。昨日の夕飯の記憶みたいに、消えてしまうわ。
沙緒:そうね。昨日の夜、何を食べたか、もう思い出せない。たぶん、コンビニの、味のしないサンドイッチ。
りん:不健康ね。作家なら、もっと瑞々しいものを食べなさいよ。それこそ、このオペラみたいに、少し乾いていても中身が詰まったものを。
沙緒:中身なんて……。毎日、自分を少しずつ削って、紙の上に並べているだけ。書き終わる頃には、空っぽ。このオペラでそれが埋まるかな?
りん:あなたの仕事って、私が苺のヘタを取る作業に似ているわね。一番美味しいところを誰かにあげるために、自分を捨てている。
沙緒:パティシェと作家かあ。似てるかしら。え、ちょっと待って。それより、丹波さん、自分のことを、苺のヘタだって言ってるの?
りん:その通りよ。完璧な一皿を作る時、作り手の余計な感情は、苺のヘタと同じ。実を汚さないために、真っ先に切り落とされるべき不要な部位なのよ。私が「自分」というヘタを潔く捨てるからこそ、お客さんは混じりけのない「美味しさ」だけを享受できる。自分を捨てられない職人が作ったものは、口の中でヘタが障るような、中途半端な味がする。
沙緒:(フォークでケーキの層をそっと撫でながら)ねえ、捨てられた方の痛みが美味しさを生むんじゃないかな。切り落とされた瞬間の鋭さが、ケーキの「トゲ」になってる。このオペラも怒ってるみたい。
りん:いちご入ってないわよ、それ。
沙緒:例えよ。ねえ、丹波さんが、このクリームを練っている時、何を考えていたか当ててあげましょうか。
りん:ふふ、お好きにどうぞ、作家先生。
沙緒:たぶん、この村の、出口のない静寂を呪っていた。違う?
りん:惜しいわね。私は、このバターがもっと自由に溶けられたらいいのにって、それだけを考えていたわ。冷蔵庫という檻の中で、固まっていた彼らの解放よ。
沙緒:解放、ね。私の言葉も、誰かの檻を壊せているのかしら。
りん:さあ。でも、少なくとも今、そのオペラを食べているあなたの表情は、少しだけ「檻」が緩んでいるように見えるわよ。
沙緒:だとしたら、似てるのかな、やっぱり。ねえ、丹波さん。明日、世界が終わるとしたら、何を作る?
りん:そうね。一番普通の、何の飾りもないショートケーキを作るわ。毒も、トゲも入れない、ただ甘くて、すぐに溶けてしまうようなやつ。
沙緒:つまらないわね。
りん:最後くらい、ただのお菓子づくりに戻らせてよ。
沙緒:ごちそうさまでした。美味しかった。
りん:お代はいいわ。
沙緒:お言葉に甘えて。(店を出ていきながら)ねえ、ヘタって何でついてるのかな。
(了)
作・千早亭小倉
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