コント「みがくのみどり」

【登場人物】
緑野翠
:ここあん村村長。理想主義でやり手だが、どこか抜けている。「てへっ」が決め台詞。
神崎志乃:喫茶店「小古庵」女将。客を否定も肯定もせず受け入れる、静かな鏡のような存在。

【場面設定】
午後の「小古庵」。カウンター席には誰もおらず、志乃が一人でグラスを布で拭き上げている。

(ドアが開き、ビリジアンのドレスを着た翠が足音を響かせて入ってくる)

緑野翠:(カウンターの丸椅子にどっかりと座り、カメラ目線で)上から読んでもミドリノミドリ、下から読んだらリドミノリドミ。てへっ。

神崎志乃:終わりました?

:ああ、疲れた。志乃さん、何か冷たいものを頂戴。

志乃:(手を止めずに)お疲れ様。今日は一段と足取りが重いようで。

:ペンタでの会議よ。数字と効率の話ばかりで、私の壮大なビジョンを誰も分かってくれないの。ちょっと志乃さん、さっきから同じグラスばかり磨いていない? 非効率よ。

志乃:いま、御自分が効率の話はうんざりって。こうして無心に布を滑らせていると、心の曇りまで取れていく気がするんです。

:無心? 心の曇り……。ちょっと貸しなさい。行政のトップとして、その作業を最適化してあげるわ。

(翠は志乃の手からグラスと布をひったくり、力を込めて拭き始める)

:ふむ。ふむふむ。布の摩擦と、ガラスが応える感触。私の手の動きが、ダイレクトに「透明度」という確かな成果に直結する。議会での不毛な答弁にはない、圧倒的な即効性と支配感!

志乃:翠さん、そんなに力を入れたら割れちゃうわよ。

:黙っていなさい! グラスの曇りは「村の停滞」のメタファー。私は、いま、この手でその暗雲を一掃しているのよ! 見なさい、この日輪の輝きを! 私のリーダーシップが、ガラスの表面に寸分の狂いもなく反射しているわ!

(キュッ、キュッ、キュキュキュッ! 翠は息を荒らげ、尋常ではない速度でグラスを磨き続ける。やがて、彼女はぴたりと手を止め、蛍光灯の光にグラスを高く透かした)

:……待って。

志乃:どうしたんです?

:(目を細め、グラスの縁を指先でなぞる)ここ。縁のところが、わずかに欠けているわ。

志乃:え?

:このコンマ数ミリの亀裂が、やがて組織全体の崩壊を招くのよ! 完璧な秩序のためには絶対に見過ごせないわ。志乃さん、今すぐ紙ヤスリとパテを用意しなさい! 私の権限で、この欠陥を完全にフラットな状態に修正してあげる!

志乃:(口元を押さえて小さく笑い)翠さん。それは、そういうデザインのカットグラスよ。意図的に波を打たせて削ってあるの。

:え?

志乃:職人さんの手仕事よ。欠陥じゃないわ。

:……。

(翠は、高く掲げたカットグラスと、志乃の顔を交互に見比べる)

:あ、もう一軒寄らなくちゃいけないところがあったんだ。じゃ行くわね。

志乃:はいはい。いつでもお待ちしてます。

:(カメラ目線で)下から読んだらリドミノリドミ。てへっ。

(暗転)

第二幕【登場人物】
青野音:53歳。ジャズバー「SoundBlue」オーナー。洗練された色気と包容力を持ち、店内の空気と客の感情を完璧に調律する。

【場面設定】
ジャズバー「SoundBlue」。開店前の薄暗い店内。

そこへ緑野翠が、しかめ面で入ってくる。

緑野翠:青野さん。村役場からの通達、無視しているわね。この一帯の環境整備に協力してもらわないと困るのよ。

青野音:いらっしゃいませ、村長。ああ、その通達の紙なんですけど、ピアノの足の下に入ってしまって。

:通達が勝手にピアノの下に? そんなわけないでしょう。

:不思議なことがあるものですよね。お陰でペダルの響きが格段に良くなりました。

:行政の公式文書を隙間埋めに使うなんて、音さん、正気なの? 村の未来のための効率化計画よ。すぐにも対処していただきたいのだけど。

:効率。ずいぶんと無粋な響きの言葉ですね。この店には、四分の四拍子のゆっくりとした時間しか流れません。急ぎの案件は店の外に置いてきてください。

:ジャズの店がよく言うわ。村長の決めたルールに従えないと?

:店の扉を閉めた瞬間から、ここは私の舞台です。お見えになったときに気になったのですが、村長の歩き方は少しテンポが早すぎます。靴音がアンサンブルを乱していますよ。

:靴音のテンポなんて行政の指導項目にないわよ。話を逸らさないでちょうだい。

:ここでは、私が指揮者です。指揮者のタクトに従わない音は、不協和音として処理します。まずはその眉間の皺を伸ばして、呼吸を整えて。

:呼吸を整える? あなたが私に指示を出すの。

:ええ。村長の発する声は、少しピッチが高いようです。フラット気味に発声しないと、この店の音響設計にひびが入ります。

:ピッチを下げる。こうかしら。あー、あー。それとも、あー、あー。いや、どうして私があなたの音響設計に合わせる必要があるの。

:調律が合っていない楽器は、美しい音色を出せません。そこのスツールに座って、このクロスを右手に持ちなさい。

:クロス。これで何をしろと言うの。

:目の前のグラスを磨くのです。円を描くように、静かに。ガラスの摩擦音が、あなたの乱れた周波数を正常な値に戻してくれます。

:円を描くように。静かに。これでいいのかしら。

:ええ、とても良い手つきです。完璧な調律ですね。そのまま、次のレコードが終わるまで磨き続けてください。

:次のレコードが終わるまで。わかったわ。

(翠が村長の顔を忘れ、無言でグラスを磨き続ける。音は満足そうに微笑み、新しいレコードに針を落とす)

:私、グラスを磨いてばかり。でも、嫌いじゃない。

:黙って、磨くのです。

(幕)

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