【登場人物】
黒崎 文:ここあん高校文芸部部長。言葉の定義と文学の魂を重んじる。
天野 光:女子バスケ部。感覚で受け止める全肯定ガールだが、人の名前を覚えるのが少し苦手。
ナツメグ:不条理の過剰実行者。分かりやすい前提や定義を嫌悪する。
【場面設定】
放課後の教室。

天野 光:(ナツメグに声をかける)ねえ、ええと、コンソメちゃん。さっきからノートの切れ端を丸めて何してるの?
黒崎 文:天野、人の名前はからかうものではない。対象のアイデンティティに対する明らかな冒涜だ。
光:からかってなんかないよ。ちょっと名前が思い出せなかっただけだもん。コンソメって、どんな具材のいいところも引き出して、優しく包み込んじゃうから、私大好きだよ! ええと、コンソメじゃなくて、シナモンちゃん、ねえ、シナモンちゃんみたいな人は? 甘くてスパイシーで皆を笑顔にする人!
文:香辛料のカテゴリーには戻ったが、そういう問題ではない。彼女の名前は「ナツメグ」だ。
ナツメグ:(丸めた紙から顔を上げる)私の名前の定義が固定されないのは、他者からの観測が不確定である証拠。私はこの流動的な状況を歓迎するわ。
光:ほら、シナモンちゃんみたいな人は全然嫌がってないよ。
文:だから彼女は「ナツメグ」だと言っているのに。第一、最初に光があげたコンソメは、香辛料ではなくてスープの素だ。スープと香辛料の定義を混同している時点でアウトだ。
光:そっか。じゃあ、ブイヨンちゃんもだめなのか。
文:残念そうに言うな。スープから離れろ。
ナツメグ:コンソメからいったんはシナモンへ飛び、いま、ブイヨンという新しい音の響きによって、私の肉体は改めて、スープの素として再構築された。私は今からブイヨンとして生きる。
光:ほら、ブイヨンちゃん、やっぱり喜んでるよ。だったら、ガラムマサラちゃんならどうかしら。
ナツメグ:(うれしそうに)私の成分が複雑化して、より刺激的になった。うふ。
文:(頭を抱える)うふじゃないだろう。なぜ、ナツメグだと教えているのに、ふざけ続けるんだ、光は。
光:えへへ。じゃあ、文ちゃん! 私自身を料理の材料に例えると何になる?
文:突然なんだ。そうだな、強いて言うなら、光こそが「ブイヨン」だ。他者の感情を無差別に受け入れるその全肯定の姿勢は、物語の土台にはなる。だが、それだけでは刺激がない。ただの生温い物体だ。
光:わあ、ブイヨン! 私、美味しいベースなんだね! どんな具材でも優しく包み込んじゃうよ!
文:(近寄ってくる光を手で制して)褒めていないからな。文学には、魂を震わせる刺激が必要だ。光の生温いブイヨンに投下される、鮮烈なジンジャー。さしずめ、私は、そのジンジャーだ。
(ナツメグ、無表情のまま、机の上へ市販の固形ブイヨンを等間隔に並べ始める)
文:ナツメグ。お前、なぜ本物の固形ブイヨンを持っている。会話の流れに安易に溶け込み過ぎではないか。
ナツメグ:天野光の概念を、物理的に可視化しているの。ねえ、そのスパイスのメタファーを展開するなら、当然私の名前も、あなたの世界観に組み込むつもりなんでしょう?
文:ふん。お前はさしずめ「クミン」だな。読者の予測を裏切り、不条理な香りで物語をかき乱す強烈なスパイスだ。悪くない役割だろう。
ナツメグ:拒否する。
文:(絶句)
ナツメグ:「予測を裏切る」という役割を、クミンという名詞で分かりやすく定義した瞬間に、それはただの予定調和に成り下がる。私はあなたの陳腐なスープのレシピには加わらない。私が名乗るなら、「非水溶性のポリ塩化ビニル」よ。
光:えー、でもナツメグちゃんも一緒にお鍋に入ったら、きっと美味しいよ? クミンとジンジャーのブイヨンスープ!
ナツメグ:私は溶けない。喉に引っかかって、あなたたちの安易な物語を物理的に窒息させるわ。
文:食い物ですらないじゃないか! 私の美しい文学的隠喩を、工業製品で破壊するな!
(ナツメグ、無表情のまま固形ブイヨンを一つかじる)
ナツメグ:塩分濃度が高すぎる。やっぱり、物理的な現実は比喩より過酷ね。
文:私の用意した完璧なメタファーを、塩分濃度という物理的な数値に還元するな! 文学を殺すな!
光:(光もブイヨンを舐める)しょっぱ。文も要る?
文:要るわけがない。
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)





