【登場人物】
徒然士:ここあん大学講師。完璧な様式美を信奉する。
鍋島潤:ここあん大学講師。民俗学が専門。現場の生きた言葉を重んじる。
【場面設定】学会会場近くにある、鍋島が予約した安宿の1階のカフェテラス。 チェックイン前、徒然士が自身の高級宿へ向かう前に、鍋島に付き合ってコーヒーを飲んでいる。

鍋島潤:だって、おいしいものを食べて、土地の人の話を聞く。それが旅の醍醐味でしょう。宿なんてただ寝るだけじゃないですか。ベッドなんて、どこも大差ありませんよ。
徒然士:(駅前の喧騒から目を背けながら)鍋島くん。君は、自分の棺桶にこだわるかね?
鍋島:は? 突然なんですか。死ぬ話ですか。
徒然士:宿とは、一時的な棺桶だ。死ぬわけではないが、その夜、自己という存在を預けるための聖域なのだよ。君は、その棺桶の「深さ」と「静寂」を放棄して、ただの寝床に何を期待しているというのだ。
鍋島:いや、寝るための場所ですから睡眠に期待しているんですよ。それより、地元のジビエを出すという酒場が——。
徒然士:(遮って)昨晩の君の宿、壁が薄かったそうじゃないか。隣の部屋の客のくしゃみが聞こえていたのだろう?
鍋島:ええ、まあ。小さく聞こえましたけど。
徒然士:それは、君の睡眠という聖典に、他者のノイズが混入したということだ。私の宿は違う。防音の次元が違うのだ。空間が、私の呼吸を待っている。歴史という空気と、私の呼吸がシンクロするのだよ。
鍋島:(困惑しつつ)……あの、私、明日の朝食で出される地元の焼き立てパンをどうやって予約するかで頭がいっぱいなんですけど。
徒然士:(静かに)君が焼き立てのパンを咀嚼している間、私は、その宿のロビーにある椅子から、木漏れ日の角度を観測している。パンを食うという「点」の経験と、宿という「面」の経験。どちらが歴史として重いと思うかね。
鍋島:パンです。圧倒的にパンのほうが、胃袋に確かな歴史を刻みます。
徒然士:君とは、永遠に分かり合えんな。この、質の低いマットレスのような議論はもう終わりにしよう。ちょんまげ生えるわ。
鍋島:質が低いのはマットレスじゃなくて、私たちの会話の生産性ですよ。
徒然士:皮肉が上手くなったな。まあいい。今日の私の宿は、かつて文豪が筆を折ったという歴史ある離れだ。天井の木目の数を、存分に数えてくるよ。
鍋島:私は、今夜も地元の酒場で「名物マスターとの談義」という名の、民俗学的なフィールドワークに行ってきますね。
徒然士:(ふっと笑い)ああ。いい夢を、質の悪い棺桶の中で見たまえ。
鍋島:宿で寝ます。ただ寝るだけです。おやすみなさい。
おばちゃん: (空いたコーヒーカップをお盆に乗せながら)はい、お下げしますよ。……お客さんたち、うちに泊まってるの?
鍋島: ええ。私はこちらに。彼は山の上の、文豪が泊まったという離れです。
おばちゃん: そうなのね。うちは壁も薄いし、朝食のパンもあたため直しただけで、ひどかったでしょう? 露天風呂から見える星空だけは、まあマシなんだよね。
鍋島: (絶句する)
徒然士: (勝ち誇ったように)ほら見たまえ。君の胃袋に刻まれる歴史はあたため直しだそうだ。せいぜい星空でも眺めて慰めることだな。では、私は完璧な様式美を誇る宿へ――。
おばちゃん: ああ、あの文豪の離れ? あそこも高いだけで、カビ臭いし、晩メシなんて、うちより不味くて。あそこは庭の苔だけはマシだけどね。
徒然士: (動きが止まる)
鍋島: (すかさず)苔。それは素晴らしい歴史の「面」の経験ですね、徒然士先生。
徒然士: うるさい。
おばちゃん: まあ、このあたりは宿も食べ物もろくでもないけど、橋から見る夕焼けだけは絶品だからね。せいぜい、それだけでも見ていくんだね。
徒然士: (不機嫌そうに鼻を鳴らし)夕焼けなどという制御不能な自然現象に、なんの様式美があるというのだ。あんなもの、どこで見ても同じだろう。
鍋島: (手元のスマートフォンをスクロールしながら)ちなみに、午後からの降水確率、90%ってなってますね。
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)


