【登場人物】
小庭千和:ここあん大学の事務局員。効率とルールを絶対視し、嫌われ役を自任する。
硯 毛八:音巴里荘に住む書道家。書を三次元の物理的記録と捉え、精神論と余白を重んじる。
【場面設定】 夕方のスーパー「人生」のレジ前。

(硯毛八が、小銭入れに顔を近づけてゆっくりと硬貨を探している。小庭千和がその後ろで、腕を組みながらつま先で床をトントンと叩いている)
小庭 千和:ちょっと前の人、早くしてもらえない? 小銭入れ覗き込んでから3分経ってるわよ。
硯 毛八:(顔を上げずに)申し訳ない。あ、これはどうも。ええと、こにゃにゃちわさん
小庭:「こにわ」じゃないわよ、「こば」よ。小さい庭で「こば」。あなた、確か硯さんよね。
毛八:五円玉が、どうしても見当たらんのです。
小庭:ないならお札出しなさいよ。さっきから、サインが決まらないバッテリーみたいで、見てていらいらする。
毛八:バッテリー?
小庭:そうよ。おサイフと指先の気が合わないんだもの。ここあん大学の学生風に言えば、タイパ最悪。プロ野球の試合見てるみたい。
毛八:プロ野球?
小庭:アメリカの調査でね、3時間くらいの試合の中で、投げて打って走る、実質的にボールが動いてる時間はどれくらいだと思う?
毛八:(小銭入れの底をほじくりながら)半分くらいですかね。
小庭:18分よ。
毛八:(手を止める)たったそれだけ?
小庭:そう。残りの2時間40分は、完全に静止してるデッドタイムなんだって。
毛八:ほう。それは興味深い。
小庭:興味持たなくていいわよ。ピッチャーが足場ならして、サイン交換して、ロジンバッグいじって、それだけで1時間。攻守交代にグラウンド整備で40分。私たち何を見せられてるのよ。
毛八:グラウンド整備は大事ですよ。
小庭:だから何よ。選手登場曲とか打席への移動で30分。ん、計算が合わないけど、まあいいわ。
毛八:「打席への移動」なんて言うと、それだけで時間がかかってそうに聞こえますね。
小庭:(話が止まらない)最近はピッチクロックとかで試合時間も短縮されたらしいけど、ボールが動くインプレーの時間が増えたわけじゃないから。退屈な待ち時間が少し減っただけ。で、今のあなたの小銭探しも、完全にデッドタイム。私の貴重な時間を削らないでくれる?
毛八:(小銭入れから顔を上げ、小庭を真っ直ぐ見る)小庭さん、あなたは余白の美学ってものを全く分かっておらん。
小庭:余白? レジ前よ、ここ。
毛八:だとしてもです。「書」というものは……。
小庭:なんで急に書道が出てくるのよ。
毛八:私、書家ですから。いいですか、「書」は、紙の上に墨が乗ってる時間だけで出来てるんじゃない。筆の穂先の捻れを整えて、紙から離れている間に生じる垂直方向への運動エネルギー。空間に描かれる見えない軌跡こそが、書の骨格を決めるんです!
小庭:レジ前で空間に軌跡を描かないで。後ろ、つっかえてるわよ。
毛八:プロ野球の2時間40分も同じです! バッティンググローブを締め直すのも、ロジンバッグを触るのも、決して無駄じゃない。次のアクションに向けて、空間に完璧な線を引くための「タメ」なんです! 打席に向かうのは、硯で墨を擦る神聖な時間なんですよ! 「移動」と言わず、「向かう」と思えば、自ずと意味が深まってくる。
小庭:あなたは、墨擦ってないで早くお札出しなさいよ。さっきから小銭を出そうとしてやめるの、何? 牽制球? 今は牽制球も制限あるのよ。
毛八:牽制じゃありません。本気の……あっ。
小庭:なによ。
毛八:やっぱり1円玉が足りん。小庭さん、ピッチクロックを導入します。千円札で。
小庭:なんで私に宣言するのよ。結局お札出すなら、さっきの小銭探しのデッドタイムは何だったの。
毛八:これもインプレーを輝かせるための、立派な余白です。 (毛八、財布から千円札を二本指で挟んで引き抜き、説明的に)軽やかに鮮やかに、千円札を提示する、と。
小庭:提示してないで、払いなさい。
毛八:さよなら、千円札。店員さん、お釣りは細かく……あれ?
(いつの間にか、毛八と小庭はレジの列から完全に弾き出されており、誘導された後ろの客たちが次々と会計を済ませている)
小庭:(自分の持っているカゴを見て)なによこれ。球場の入り口に戻されたわ。あなた、もうカード決済にしなさい。
(幕)

