【登場人物】
古暮 賢人:ここあん大学院生(M1)。日常の些細な摩擦を過剰な論理で語り、他人にたかろうとする小心者。
さやかっくす:塔「ペンタ」の管理人で学バスの運転手。思考よりも肉体の感覚を優先する野生派。
【場面設定】
巨大塔「ペンタ」の外壁付近のベンチ。古暮が両手で頭を抱え、項垂れている。

古暮:聞いてくれ、さやかっくす。今日の僕の絶望は、朝起きて歯磨き粉を洗面台に落とした、あのたった1滴のペーストから始まったんだ。
さやかっくす:(ベンチの隣に工具箱を置き、中を漁りながら)ちわっす。
古暮:ああ、こんにちは。急ぎすぎた。で、そのペーストを拭き取るために消費した、予定外の8秒間。そのせいで僕は、いつも乗っている、君が運転する学バスを逃し、次のバス、と言ってもそれも君が戻ってきて運転するバスだが、それに乗るために走った結果、靴の底が剥がれた。そして剥がれた靴底をかばって不自然に歩いたせいで歩行のテンポが狂い、大学に着いたあとも、購買部で最後の「特製カツサンド」を前の奴に奪われたんだ!
(さやかっくす、古暮の足元を無言でじっと見ている)
古暮:わかるか? たった1滴の歯磨き粉が、巡り巡って僕の今日のカロリー摂取量をゼロにした! 世界は最初から、僕という存在を空腹攻撃で排除するように設計されていたんだよ! この圧倒的な世界の悪意に、僕はもう一人じゃ立ち向かえない。だから、後輩である君のその温かい慈愛と、小銭入れに入っている150円で、僕の胃袋を救済して……。
(さやかっくすが、無言で古暮の足から靴をもぎ取る)
古暮:えっ、ちょっと! 急に人の靴脱がせて何してるの!?
さやかっくす:(無言で、靴底の剥がれた断面に紙ヤスリをかけ、古い接着剤のカスを丁寧に削り落としていく)
古暮:今、僕は自分の人生の不条理についてすごく深刻な話をしてたよね!? 慰めとか、最悪「先輩かわいそうっすね、おごるっすよ」みたいな展開を期待してたんだけど!
さやかっくす:(専用の接着剤を取り出し、剥がれた両面に均一に薄く塗布する。息を吹きかけて少し乾かしてから、渾身の力で圧着する)
古暮:いや、手際! その手際! なんでいつもペンタの壁を登ったり下りたり繰り返している、学バスの運転手さんが、靴底の接着プロセスを完璧に理解してるの!? っていうか話を聞いて! 僕のお腹の鳴る音、聞こえない!?
さやかっくす:(圧着した部分をガムテープでぐるぐる巻きに固定し、ハンマーの柄で叩いて微かな空気を抜く)
古暮:めっちゃ本格的! そこまでされたら、あとでテープ剥がす時のことまで計算されてるって分かっちゃうじゃないか! 違う、そうじゃなくて! 僕は靴を直してほしいんじゃなくて、君の優しさが欲しかったんだよ!
さやかっくす:(靴を古暮の膝に放り投げる)はい、これで走っても剥がれないっすよ。
古暮:ほえっ、ぴったりくっついてる。接着剤のはみ出しも一切ない。
さやかっくす:重心がブレてたから、運が悪かっただけっすよ。足の裏でしっかり地面を掴んで踏み込めば、大抵のことはどうにかなるっす。じゃ、あたし壁の点検あるんで。お疲れっすー。
(さやかっくすが、そのままペンタの外壁をスルスルと登り始める)
古暮:待って! 接着剤が完全に乾くまで歩けないから、どっちにしろ購買に行けないじゃないか!
さやかっくす:(上のほうからの声)重力に逆らわずに、じっと待つっすねー!
古暮:お腹空いたあ!
さやかっくす:あと、先輩の歯磨き粉、ペーストだったら1滴2滴って数えないと思いますよ。
(風に流され、最後のほうはよく聞き取れない)
古暮:え、何か重要なこと? ねえ、重要なこと?
(幕)
作・千早亭小倉




