「あとは任せたぞ、天野」
僕たちの絶対的な支配者であった黒崎文部長が、その一言だけを残して文芸部室を去ってから、一週間が過ぎていた。
急に現れた怠惰な顧問・月読リノ先生が置いていった部誌制作のデータ入りUSBメモリと、僕と天野光が共同で書いていた小説『コンクリートの涙』の書きかけの原稿。そして何より、部長が去った直後に天野さんがこぼした大粒の涙と、「地下文芸部」という謎の言葉。それらすべてが未処理のタスクとして僕の脳内に積み上がったまま、文化祭に向けた僕たちの作業は、事実上のデッドロック状態に陥っていた。
理由は明白だ。黒崎部長という強烈な重力が消えたことで、僕と天野さんの間にあった「共犯関係」という名の緊張の糸が緩み、代わりに「お互いをどう扱えばいいのか分からない」という生々しい距離感が露出してしまったからだ。
天野さんは翌日から、何事もなかったかのように「神崎くん、今日も頑張ろうね!」と太陽のように笑って部室に顔を出してくれた。だが、僕の分析眼はごまかせない。彼女の笑顔の奥にある微かな強張りと、僕自身の内側にある、これ以上彼女の心に踏み込むことへの臆病なためらい。僕たちは『コンクリートの涙』の続きを一行も進められないまま、放課後の部室で当たり障りのない会話をしては、気まずい沈黙をやり過ごす日々を送っていた。
その日も、僕は部室に一人で残るのが息苦しくなり、逃げるようにペンタの下層階にある校舎を出て、克枯町の商店街へと足を向けていた。
夕暮れ時の商店街は、スーパー「人生」から流れるテーマ曲と、惣菜屋の揚げ物の匂いで満ちている。その脇道にある大衆食堂「こがね亭」のドアを開けると、ソースが鉄板の上で焼ける鋭い音と、炊き立ての米の甘い湯気が僕の顔を包んだ。
店の隅にある二人掛けの狭いテーブル席に腰を下ろし、カツカレーを注文すると、文庫本――ラテン語から直接訳された難解な随想録――を開いた。首にはワイヤレスイヤホンをかけているが、音楽は流していない。今の僕に必要なのは、自分の内側にあるモヤモヤとした感情のノイズを、外部の雑多な情報で上書きすることだった。
右隣のテーブルでは、ここあん大学の学生らしき青いパーカーの男が、向かいに座るこれも恋人らしき女性に対し、昨日彼女が見たテレビドラマの感想の矛盾点をねちっこく詰問している。左後方からは、運動部帰りの生徒たちが放つ汗と制汗スプレーの混じった匂いが押し寄せてくる。
それらすべてが、僕の鼓膜を平等に打つ。隣の男が発した「そもそも君の『好き』は、本当に自律的な感情なのか?」という湿った問いかけと、手元の文庫本の活字が、僕の頭の中で接続された。
その時だった。
「あれっ、神崎くん?」
頭上から、聞き慣れた明るい声が降ってきた。 顔を上げると、そこにはバスケットボール部のエナメルバッグを肩にかけた天野光さんが立っていた。練習帰りなのか、ポニーテールの毛先がわずかに湿っており、健康的な熱気が僕の席まで届いてくる。
「天野さん。どうしてここに」
「部活の帰りに、お母さんに頼まれたお惣菜を買いに来たの。ここのお店の、持ち帰りできるんだよ。で、窓から神崎くんが見えた。ね、隣、いい?」
僕が頷くよりも早く、彼女は「よっと」と声を上げて、僕の向かいの席ではなく、なぜか僕のすぐ隣の隙間へと滑り込んできた。二人掛けの小さなベンチシートだ。当然のように、彼女の柔らかい二の腕が、僕の制服の袖越しにぴたりと密着する。
「ち、近いよ、天野さん。向かいの席が空いてるじゃないか」
「だって、こっちのほうが神崎くんが何読んでるか見えるもん。へえ、またすっごく難しそうな本!」
そこへ、僕が頼んだカツカレーが運ばれてくる。
「 あ、カツカレーだ」
これ以上ない、天野さんの直接的な言葉に、店内にいた二、三人が、ちらっとこちらをうかがう。天野さんはおかまいなしだ。
「ねえ、神崎君、克枯町のジンクスって知ってる? ここのカツカレーを食べると、演技が上手くなるんだって」
彼女が身を乗り出して僕の文庫本を覗き込むたび、石鹸の香りと、運動後の少し汗ばんだ体温がダイレクトに伝わってくる。僕の二の腕に触れている彼女の肌の熱量が、僕の思考回路に激しいノイズを走らせた。
僕は反射的に身体を少し引こうとしたが、背後はすぐに店の壁だった。逃げ場がない。
「あ、ごめん。私、汗くさいよね」
僕のわずかな身じろぎを敏感に察知して、天野さんがぱっと身体を離し、向かいの席へと移動した。その顔には、いつもの全肯定の笑顔が貼り付いている。だが、その瞳の奥がほんの一瞬だけ揺れたのを、僕は見逃さなかった。
「いや、そういうわけじゃ」
「ううん、いいの! お惣菜買ったらすぐ帰るから。また明日、部室で!」
彼女は、厨房に向かって「ゴボウ天、持ち帰りで」と声をかけると、僕の肩をぽんと軽く叩いて席を立った。残された僕は、彼女の手のひらの熱が残る自分の肩と、手つかずのカツカレーからのぼる湯気を交互に見つめた。
(ああ、まただ)
胸の奥に、鉛のような自己嫌悪が沈殿していく。 僕は、他者と深く繋がることを恐れている。天野さんが近づいてくると、その熱量にどう応えていいか分からず、無意識に壁を作ってしまう。そのくせ、彼女が離れていくと、たまらなく孤独になる。『コンクリートの涙』の続きが書けない本当の理由は、黒崎部長がいなくなったからじゃない。僕自身が「他者との永続的な関係」というものをどう描けばいいのか、いや、どう向き合えばいいのか、皆目見当がついていないからだ。
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、隣の席の大学生カップルを横目で見ながら、メモアプリに一行のテキストを打ち込んだ。
『他者との永続的な関係構築を恐れる男』
打ち込まれた文字を、数秒間見つめる。
今の僕が抱えている、このどうしようもない臆病さと面倒くささ。これを一度、徹底的に解剖してみなければ、僕は天野さんと一緒に『コンクリートの涙』を完成させることなどできないのではないか。
僕はスマホをしまい、冷めたカツカレーを口に運んだ。
(以下、第1章第1話につづく)
作・千早亭小倉


