翌日の放課後。僕は文芸部室ではなく、ペンタ三階の廊下を歩いていた。
手には、昨夜から今朝にかけて書き殴った、数枚のルーズリーフが挟まったクリアファイルがある。『コンクリートの涙』とは別に、僕が過去から現在に至るまでに書き溜めていたいくつかの個人的な習作と、昨夜思いついたプロットのメモだ。
黒崎部長がいた頃なら、迷わず彼女の前に突き出して「駄文!」と罵倒されていたところだろう。だが、今の部室には彼女はいなくて、代わりに天野さんと堂島が待っている。天野さんにはまだ見せられないし、堂島に見せれば空間の測量が始まるだけだ。
だからこそ、僕は「第三の視点」を求めて、職員室の隣にある講師控室の扉を叩いたのだ。
「ハー。で、何さ、カンザキ? 私、これからスマホでアルゼンチンのドラマのスピンオフ見なきゃいけないんだけど」
出てきたのは、文芸部顧問の月読リノ先生――通称「リノリウムの床」だった。よれよれのジャージ姿で、僕が差し出したクリアファイルを、心底面倒くさそうに指先でつまみ上げる。
「文化祭の部誌の件なんですが、共同執筆とは別に、僕個人の課題としてどうしても確かめたいことがあって。顧問として、少し目を通していただけないかと」
「コモンねえ。あのね、私のコモンとしての業務は、こないだUSBメモリを渡した時点で98パーセント終了してるわけ。そういう高尚なブンガクの悩みはさあ……」
リノ先生は大きなあくびをひとつすると、控室の奥を振り返った。
「ねー、みかん先生。うちの文芸部のカンザキが、なんかチューニビョーこじらせた原稿持ってきてるんだけど。特別非常勤講師として、ちょっと見てやってくれない? ほら、これ単位あげるから」
「単位って、月読先生、私には単位はいらないわよ」
柔らかな笑い声とともに、控室の奥から一人の女性教師が歩いてきた。
――海野みかん先生。
今年からここあん高校で「ヴィネット・散文表現演習」を受け持っている、31歳の特別非常勤講師だ。上質なコットンのシャツに、足首の見えるスラックス、歩きやすいフラットシューズ。リノ先生の怠惰なジャージ姿とは対照的な、風通しの良い透明感を纏った先生だ。
「じゃあ、せっかくのお願いだし、隣の空き教室でお話ししましょうか。神崎君、ついてきてちょうだい」
リノ先生からクリアファイルを受け取ったみかん先生は、多色ボールペンを一本だけ指先に挟み、軽やかな足取りで空き教室へと僕を招き入れた。
放課後の空き教室は、紙とチョークの乾いた匂いが支配する静かな空間だった。窓の外から聞こえる運動部の掛け声が、ガラス一枚を隔てて遠くに響いている。 みかん先生は教壇には立たず、生徒用の机を二つ向かい合わせにすると、その片方に腰を下ろし、僕にも座るよう手で促した。
「えっと、天野さんと書いている作品――『コンクリートの涙』だっけ、それの相談かと思ったけれど、これは違うのね?」
「はい。黒崎部長がいなくなって、天野さんとの共同執筆がどうしても上手く進まなくなってしまって。原因は、僕自身にあります。僕が、人間関係をどう捉えていいのか分からなくなっているんです」
みかん先生はすぐに意見を返さず、小さく「うん」と頷いてから、面白そうに目を細めて僕の次の言葉を待った。そして、クリアファイルから取り出した数枚のレポート用紙――僕がこれまでに一人で書いてきた掌編小説の束を、トランプのカードのように机の上に広げてみせた。
「ふむ。これ、全部、神崎君が書いたものよね?」
「はい。以前、僕が別のペンネーム――『角田勉』という仮の名前を使って、ノートに書き溜めていた習作です」
自分の本名ではなく、あえて「角田勉」という架空の筆名を付けたノートを見られることに、僕はわずかな気恥ずかしさを覚えた。
みかん先生は、広げた四枚の原稿の上で、多色ボールペンの先をくるりと回した。
「とても面白いわね。一人の高校生が書いたはずなのに、文章の『手触り』が四つともまるで違うのよ」
先生の細い指が、一枚目の原稿をトン、と軽く叩いた。
「まず、これ。安酒や煙草の匂いをわざとまとわせて、社会の底から世界を睨みつけているような無頼のトーンね。これは、黒崎さんの影響かしら? 乾いた絶望の切り取り方が、すごく背伸びしていて」
みかん先生はそこで言葉を切ると、こう続けた。
「格好いいわ」
指が滑り、二枚目の原稿へ移る。
「こっちは、冷徹な建築家ね。プロットという設計図に、登場人物や感情を過不足なく配置している。とても安定しているけれど、自分が作った安全な箱庭から一歩も出ようとしない臆病さも感じるわ」
さらに、三枚目の原稿。
「かと思えば、この書き手は、登場人物への愛情が溢れちゃっている。どんなに寂しい場面を描いても、最後にほんの少しの光や救いを用意せずにはいられない、お人好しの顔をしているわね」
そして、最後の一枚。
「で、この四番目が一番厄介かしら。洗練された孤独の美学を気取って、綺麗な比喩やリズムで言葉を磨いているけれど、自分の本音だけは絶対に晒さないように鍵をかけている。気取り屋の仮面ね」
僕は、ほんのわずかな時間の間に、自分の内面を一枚ずつ優しく剥がされ、机の上に並べられていくような感覚に襲われた。黒崎部長のように「駄文!」と斬り捨てるのではない。みかん先生の言葉は、柔らかくて温かいのに、僕の隠していた急所を正確に突いていた。
「神崎君の筆が止まってしまうのは、きっと当然よ。あなたの中にいるこの四人が、一つの物語の中で『僕が書く』『いや、俺が書く』って主導権を奪い合っているんだもの」
みかん先生は立ち上がると、僕の机のすぐ横まで歩いてきて、机の上に広げられた一番最後のメモ――昨夜、僕が定食屋で打ち込み、今朝紙に書き出したプロット案を覗き込んだ。 先生が身をかがめた拍子に、彼女のコットンのシャツの袖が僕の肩にふわりと触れ、風通しの良い清潔な香りが鼻先をかすめた。
僕は思わず背筋を伸ばす。
(第二話へ続く)
作・千早貞小倉



