箱庭コント344「漱石の借り」

【登場人物】
芳野 結衣
:ここあん村立図書館アーカイブ専門員。何事も正確な分類とゼロリセットを重んじるが、計算が合わないと大パニックを起こす。
岸辺 義道:映画監督志望のここあん大学生。実家は寺。斜に構えて何でも映画のワンシーンにしたがるが、鋭い常識人。

【場面設定】
ここあん村立図書館の地下資料室。夕方。薄暗く静まり返った地下室。古い紙とインデックスカードの匂いが漂っている。作業机の前に立つ岸辺義道が、手持ち無沙汰に指で四角いフレームを作り、鉄製書架の暗がりを覗き込んでいる。

(脇に分厚い紙のファイルを抱え、両手で小さな包みを捧げ持った芳野結衣が足音正しく入ってくる)

芳野結衣:岸辺さん。お待たせしました。お寺の過去帳の複写作業、完了いたしました。

岸辺義道:お疲れさんまの塩焼き定食。助かったわ。これで親父に怒られんですむ。それにしても相変わらずこの地下室、ええ陰影が出とるな。蛍光灯の間引き具合といい、奥の鉄扉の錆び方といい、昔の硬派なサスペンス映画のセットみたいや。

結衣:間引きではありません。資料の褪色を防ぐため、照度を意図的に制限しているのです。それと、本日はもう一つ、あなたにお渡ししなければならないものがあります。

(結衣、抱えていたファイルを机に置き、持っていたシックな小箱を、両手でまっすぐ義道の胸元へ突き出す)

義道:(箱を振る)えっと、これは……洋菓子?

結衣:ああ、そんなに振らないでください。

義道:ああ、すまん。でも、なんで?

結衣:先月、クリーンセンターにおいて、あなたが私の図書カードの束を十字に縛ってくださった件に対する正当な対価です。これであなたに対する私の負債は完全に消滅します。

義道:あの一か月前のゴミ捨ての件か。えらい律儀やな。中身は、なんや?(匂いを嗅ぐ)フィナンシェか? ありがたく全部もろてくわ。

(義道、箱を開けようとする。結衣、なぜか箱を奪い返し、胸元で抱え込む)

結衣:全部渡すわけがありません! お察しの通り、この箱の中身は七個のフィナンシェです。私たちは二人です。七割る二は三、余り一。この、どうやっても余ってしまう一個の処遇が、今日一日の私の脳内処理能力を八割占拠していたのです!

義道:は? ちょっと待て。なんで最初から俺とあんたの二人で分ける前提やねん。

結衣:えっ。

義道:お礼なんやろ? ほんなら、何も考えんと、箱ごと俺にくれたらええやん。なんで当たり前みたいに「七割る二」って、俺と一緒に食う計算からスタートしとんねん。

結衣:な、何を言っているんですか! 箱ごとあなたに渡せるわけがないでしょう!

(結衣、机の上のファイルを両手でバシンと叩く)

結衣:あのときあなたが投下した労働力は、紐掛け作業および散乱したカードの回収補助、時間にして約八分四十秒です! 近隣の最低賃金および技術提供料を厳密に換算すると、対価は「フィナンシェ三点五個分」に相当するのです!

義道:三点五個分!?

結衣:そうです! しかし駅前の洋菓子店には「七個入り」の箱しか売っていなかった! もし私がこの箱をまるごとあなたに渡してしまったら、三点五個分の過剰給付が発生します! それはつまり、私があなたに過剰な恩義を押し付け、今度はあなたが私に借りを作ることになるでしょう! 貸し借りはその日のうちに完全に相殺し、貸借対照表をゼロにリセットしなければならないのです!

義道:相殺って、なんでその場で一緒に食うてチャラにしようとしとんねん! 後でゆっくり家で一人で食わせろや!

結衣:持ち帰らせたら、その未清算の三点五個が「人間関係の未払い債務」として翌日以降に繰り越されてしまうじゃありませんか! だからこそ、この場で私の目の前で三点五個ずつ同時に消費し、関係性を完全に消滅させる必要があったのです!

義道:関係性を消滅させるためにわざわざ地下室でお茶会開こうとしとったんか!?

結衣:お茶会ではありません、債務処理の執行です! ところが、焼き菓子は個体です! 三点五個という単位で綺麗に分けることができない! 奇数の七個である以上、四個渡せば過剰給付、三個しか渡さなければ私の不当利得になる! そして余った一個をどちらかが食べれば、その瞬間に不均衡が生じるのです!

義道:一個くらい芳野さんが食えばええやろ!

結衣:そんなことができるはずないでしょう! たとえば私が「これ、余ったから私が食べるね」と言ったとします。するとあなたの脳内では何が起きますか? あのクリーンセンターの夜の二の舞になるに決まっています!

義道:クリーンセンターの夜?

結衣:「月が綺麗ですね」とあなたが言ったあの夜です! 自分の発言を棚に上げて「図書館のお姉さんからの決別宣言か!?」などと、ありもしないドラマ性を勝手にでっち上げたではありませんか! 今回も「なぜ余りを自分で食べたのか? もしかして最初から自分と一緒に食べる口実を作るために、わざと奇数個を選んだのではないか?」と、ハリウッド的な誇大な妄想を展開する可能性が極めて高いです!

義道:せえへんわ! 誰が焼き菓子一個で運命のクランクインやと思うねん!

結衣:私はその余剰分による誤解を防ぐため、最初から偶数に見せかける隠蔽工作を試みました。一個抜いて六個入りに偽装すれば、穏便に三個ずつで割り切れますから。しかし、この箱の内側には七個分のくぼみが成形されていたのです! 一つ抜けば、そこに不自然な空洞ができる! 人間は欠落した情報に対して勝手な文脈を補完しようとする生き物です! あなたは必ず「ここにあったはずの七個目はどこへ消えたのか?」と、その不在に物語を見出そうとするに決まっています!

義道:見出さへんて! 隙間があったら「あ、一個先に食ったんやな」で全編終了や!

結衣:情報の欠落を放置するなど、専門員として絶対に容認できません! ですから私は、その空洞を埋めるために、同じ寸法の角材を削り出して、焦げ茶色の油性ペンで塗装して仕込もうとしたのです!

義道:狂気の沙汰やろ! なんで菓子箱に木片仕掛けてんねん! 俺が気付かんと噛んだら歯ァ折れるわ!

結衣:言ったはずです、賢い人間ほど隠し方と埋め方が不自然になるのです! 秩序を保とうとすればするほど工作は大掛かりになり、足りない辻褄を合わせようとすれば虚構の書類が増える! その結果が、この二十四ページの検証報告書です!

義道:フィナンシェ食うだけで卒論並みの書類書くなや!

結衣:市場価格の妥当性、作業時間に対する対価の換算式、近隣店舗の在庫状況をすべて網羅してあります! これで私があなたに対して、個人的な感情や思惑を一切抱いていないという反証が完全に成立します!

義道:必死すぎて逆に好意だだ漏れやんけ!

結衣:なっ、違います! いえ、断じて違います!

(結衣、息を呑み、耳まで真っ赤にして後ずさる。動揺を隠すように、机の上のインデックスカードの束をトントン、トントンと執拗に打ち付けて角を揃え始める)

義道:報告書なんかいらんわ。人と関係性が残るのがそんなに怖いんか?

結衣:関係性が怖いんじゃありません! 割り切れないのが怖いんです!

(結衣の手が止まる。カードをぎゅっと握りしめる)

結衣:人間関係なんて、言ってみれば素数同士の割り算じゃないですか。最初からきれいに割り切れるはずがないんです。それなのに、中途半端に几帳面なせいで、割り切れなかった余りをどう処理していいかわからなくなるんです。無理に小数で処理しようとして、頭の中でレイ点三三三三って無限ループに突入して、脳のシステムが強制休止しそうになるんです!

(義道、呆れたように短く息を吐くと、結衣の手元からすっと箱を取り上げる。結び目を解き、中からフィナンシェを一つ取り出す)

結衣:あ、勝手に。

(義道、フィナンシェを両手で持ち、真ん中からパキッと二つに割る)

義道:ほら。(割った片方のフィナンシェを、結衣の口元へ突き出す)

結衣:え?

義道:余った一個は、半分こにすりゃええねん。これで一人三点五個。綺麗に割り切れて、お互いの貸し借りもゼロや。

結衣:三点五。いえ、そもそも割った断面から微小な粉が脱落しており、質量が非対称です。それに有効数字の桁数が。

義道:ええから食いなはれ。

(義道、そのままフィナンシェを結衣の唇に押し当てる。結衣は観念したように小さく口を開け、押し込まれた焼き菓子をもぐもぐと咀嚼する)

義道:ついでに言うとな、その二十四ページの書類、表紙のまとめんとこチラッと見えたんやけど。

(結衣の咀嚼がぴたりと止まる)

義道:「総括:岸辺義道氏との夕食の同席は、今後の地域資料収集において極めて合理的である」って書いてあったぞ。

(結衣、激しく咳き込む。胸元を両手で押さえ、涙目になって義道を睨みつける)

結衣:そ、それはですね! お寺の蔵に眠る古文書の開示交渉を円滑に進めるための、必要経費としての外食であって! 決して私的な感情ではなく、業務上の最適解として導き出された結論なんです! そもそも、公務員の飲食は、扱いが大変むずかしいんです。

義道:夕飯、何食うんや。

結衣:えっ。

義道:何食べたいんかって聞いとるんや。

(結衣は激しく視線を左右に泳がせ、何度も息を吸い直したあと、唇を尖らせて小さく俯く)

結衣:二人で平等に分割できるメニューです。ピザとか、偶数ピースに正確に切り分けられるもの。

義道:ピザなら八等分やな。一人四枚。余りゼロや。ほな、行こか。

(義道が小さく笑って、先に歩き出す。結衣は机の上の分厚いファイルを慌てて抱え直し、背筋をぴんと伸ばした早足で、その背中を追いかけていく)

(幕)

作・千早亭小倉


岸辺義道|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:岸辺義道(きしべぎどう)年齢・性別:20代前半・男性肩書:ここあん大学生・自主映画サークル「アーヌエヌエ」メンバー愛称・ぎっちゃん。ここあん村の古い寺の息子で、ハル(恋流波陽)と同級生の青年。斜に構えたような態度をとりますが、内面には…
芳野結衣|箱庭ここあん村の住人紹介
【基本情報】氏名:芳野 結衣(よしの ゆい)年齢・性別:35歳肩書:ここあん村立図書館 アーカイブ専門員(2階・地域資料担当)ここあん村を襲った「あのこと」以前から、図書館で郷土資料を担当していた呼び戻し職員です。現在は散逸した芸術資料の収…
[コント台本・掌編 約600本]

主な舞台は、椎名町三丁目から広がる箱庭「ここあん村」。箱庭コント作家・千早亭小倉の手による、どこか懐かしい日常劇やクスッと笑えるコメディ、沁みる掌編を絶賛公開中です。これからも「読むシットコム」の世界を追究していきます。
*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI. *引用の範囲を超える無断転載・複製を禁じます。 Copyright © 2025-2026 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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