これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
息を、口から細く長く吐き出す。吐いた分だけの空気が、鼻の奥をすっと抜けていく。今日の朝の空気は、春の匂いを含んであたたかくさえ感じた。ただ、ここあん村からやってきた千夏さんにとっては、まだ肌を刺すような冷たさかもしれない。
釜石線の時刻表を指でなぞる。鱒沢駅から上って花巻で乗り継げば、そこから東京方面の新幹線に乗るだけだ。時間を見る限り、それが一番合理的で、お互いに負担のない別れ方だった。でも、私はいつの間にか車のキーを手に取っていた。
「新花巻まで、送るわ」
助手席のドアを開けると、冷気に身を縮ませていた千夏さんが、少しだけ目元を緩めた。
車を出す前、ふと思いついてスマートフォンをポケットから取り出した。
「ねえ、写真撮ろうか」
自分からそんなことを言うなんて、いつぶりだろう。雪よけのトタン屋根が少し錆びた鱒沢の家、私の古い軽自動車、そして、銀縁の眼鏡の奥で少しだけ驚いた顔をしている千夏さん。シャッターを切る瞬間、隣に立つ彼女の肩の体温がコート越しにじんわりと伝わってきた。
花巻までの道のり。スタッドレスタイヤが乾いたアスファルトを噛む、規則的な低い音が車内に響く。 話題は、昨日の夜に話した「時間を稼ぐ」ということについて戻っていた。
ハンドルを握りながら、私は前を向いたまま口を開く。
「悠々として、急げ」
千夏さんが、ん?と少し顔を傾けた気配がした。
「作家の開高健が好んで使っていた言葉の受け売りだけど。好きな言葉なの。元々はね、ローマの皇帝の……アウ、アウグス……テュス……?」
舌がもつれて、おかしな音が出た。隣で千夏さんが吹き出し、私もつられて笑ってしまった。
「急いでどうするのよ、私。ねえ」
笑いながらそう言うと、千夏さんも「そうですね」と肩を揺らした。
「でも、いい言葉ですね」
真っ直ぐな前方をみつめながら、千夏さんは深く頷き、小さく「悠々として急げ」と繰り返した。常に本棚の分類のように世界を整理しようとし、秩序を求めて焦ってしまう彼女の、細い指先が膝の上で少しだけ緩んだのが見えた。それが、彼女の胸の奥で、確かな羅針盤になってくれたならいい。
新花巻駅のロータリー。
トランクから荷物を下ろし、キャリーケースの冷たい持ち手を千夏さんに渡す。
「またね。またいらっしゃい。ううん、また来てね」
口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。この土地に来てから、あるいはもっと前から、私は「できないかもしれない約束」を軽々しく口にするのを極端に避けていたはずなのに。
千夏さんが、キャリーケースから手を離し、一歩踏み出して私の背中に腕を回した。
戸惑いながら、私も彼女の背中に腕を回す。コート越しでも、その身体が驚くほど華奢なのがわかった。この細い肩で、あの村の重たい混沌を必死に支えようとしているのだ。そう思うと、言葉の代わりに自然と腕に少しだけ力が入った。
「来て良かったです」
耳元で囁かれたその声は、少しだけ震えていて、とても熱を帯びていた。
私は何も答えなかった。言葉にしてしまえば、この胸の奥から湧き上がってくる、喉の奥をきゅうっと締め付けるようなあたたかいものが、輪郭を失ってしまいそうだったから。
ただ、改札へ向かう彼女の真っ直ぐな背中を見送る時、私の口からはごく自然に、もう一度その言葉がこぼれ落ちていた。
「気をつけて。またね」
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
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