移動図書館日記(114)遠野編

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

息を、口から細く長く吐き出す。吐いた分だけの空気が、鼻の奥をすっと抜けていく。今日の朝の空気は、春の匂いを含んであたたかくさえ感じた。ただ、ここあん村からやってきた千夏さんにとっては、まだ肌を刺すような冷たさかもしれない。

釜石線の時刻表を指でなぞる。鱒沢駅から上って花巻で乗り継げば、そこから東京方面の新幹線に乗るだけだ。時間を見る限り、それが一番合理的で、お互いに負担のない別れ方だった。でも、私はいつの間にか車のキーを手に取っていた。

「新花巻まで、送るわ」

助手席のドアを開けると、冷気に身を縮ませていた千夏さんが、少しだけ目元を緩めた。

車を出す前、ふと思いついてスマートフォンをポケットから取り出した。

「ねえ、写真撮ろうか」

自分からそんなことを言うなんて、いつぶりだろう。雪よけのトタン屋根が少し錆びた鱒沢の家、私の古い軽自動車、そして、銀縁の眼鏡の奥で少しだけ驚いた顔をしている千夏さん。シャッターを切る瞬間、隣に立つ彼女の肩の体温がコート越しにじんわりと伝わってきた。

花巻までの道のり。スタッドレスタイヤが乾いたアスファルトを噛む、規則的な低い音が車内に響く。 話題は、昨日の夜に話した「時間を稼ぐ」ということについて戻っていた。

ハンドルを握りながら、私は前を向いたまま口を開く。

「悠々として、急げ」

千夏さんが、ん?と少し顔を傾けた気配がした。

「作家の開高健が好んで使っていた言葉の受け売りだけど。好きな言葉なの。元々はね、ローマの皇帝の……アウ、アウグス……テュス……?」

舌がもつれて、おかしな音が出た。隣で千夏さんが吹き出し、私もつられて笑ってしまった。 

「急いでどうするのよ、私。ねえ」

笑いながらそう言うと、千夏さんも「そうですね」と肩を揺らした。

「でも、いい言葉ですね」

真っ直ぐな前方をみつめながら、千夏さんは深く頷き、小さく「悠々として急げ」と繰り返した。常に本棚の分類のように世界を整理しようとし、秩序を求めて焦ってしまう彼女の、細い指先が膝の上で少しだけ緩んだのが見えた。それが、彼女の胸の奥で、確かな羅針盤になってくれたならいい。

新花巻駅のロータリー。

トランクから荷物を下ろし、キャリーケースの冷たい持ち手を千夏さんに渡す。

「またね。またいらっしゃい。ううん、また来てね」

口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。この土地に来てから、あるいはもっと前から、私は「できないかもしれない約束」を軽々しく口にするのを極端に避けていたはずなのに。

千夏さんが、キャリーケースから手を離し、一歩踏み出して私の背中に腕を回した。

戸惑いながら、私も彼女の背中に腕を回す。コート越しでも、その身体が驚くほど華奢なのがわかった。この細い肩で、あの村の重たい混沌を必死に支えようとしているのだ。そう思うと、言葉の代わりに自然と腕に少しだけ力が入った。

「来て良かったです」

耳元で囁かれたその声は、少しだけ震えていて、とても熱を帯びていた。

私は何も答えなかった。言葉にしてしまえば、この胸の奥から湧き上がってくる、喉の奥をきゅうっと締め付けるようなあたたかいものが、輪郭を失ってしまいそうだったから。

ただ、改札へ向かう彼女の真っ直ぐな背中を見送る時、私の口からはごく自然に、もう一度その言葉がこぼれ落ちていた。

「気をつけて。またね」

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

中野文

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

ものがたり
higashiboctokをフォローする
タイトルとURLをコピーしました