これは、日記という名を借りた私の記憶。
朝、二階の一般図書フロアで返却された本を棚に戻していると、開け放たれた窓から初夏の少し湿った風が入り込んできた。本館に人が戻り、あちこちから話し声や足音が聞こえる。開架フロアを歩く人々の気配を感じながら、建物全体がゆっくりと深呼吸をしているみたいだと思った。
空になったブックトラックを芳野さんに託し、私はロマコメ号のキーを手に取った。
今日の巡回先は、木造の仮設団地。ドライバーのHさんがゆっくりとロマコメ号を停める。昨日降った雨がところどころに小さな水たまりを作っていたが、Hさんは、私が降りる時のことも考えて、車を停めてくれる。
ハッチを押し上げると、コンクリートの照り返しとは違う、木の柔らかい匂いと土の匂いが混ざった風がオーニングの下を吹き抜けていく。
しばらくして、カウンターに時代小説の文庫本が数冊置かれた。
「千冊に届いたのよ」
いつも来てくれる80代くらいの女性が、目尻に深い皺を寄せて笑う。「あのこと」の前から、読書ノートを付けていることを教えてくれたおかあさんだった。彼女は、時代小説ばかり読み続けてきたのだという。「わあ、すごいですね」そう返そうとした私の笑顔は、おかあさんの次の言葉でかたまってしまった。
「今度ね、引っ越すことになったのよ」
おかあさんの指先が、返却された文庫本の背表紙をゆっくりとなぞっている。引っ越しは珍しいことではない。それでも私は、その言葉を聞くと少しだけ身構えてしまう。
今の仮設住宅は、風の通りがとても気持ちいいのだという。ここには、ここあん村でも唯一の、木造の仮説住宅が並ぶ。ひとり暮らしだが、周りに友達もできて、縁側でお茶を飲んだり話をしたり、とても居心地がいい。ただひとつ、買い物に行くスーパーまでが遠いことだけが難点だった。 新しい引っ越し先は、長年住み慣れた土地に近く、スーパーもすぐそばにあるらしい。
「どっちがいいのかねえ」
おかあさんは、困ったような、でもどこか今の迷いすら面白がっているような顔で笑った。
私はすぐには答えず、開け放たれたハッチの向こうで揺れる木々の葉をじっと見つめた。風が私の前髪を揺らし、首筋をすっと抜けていく。
日々の便利さと、時間をかけて築き上げた居心地の良さ。どちらが正解かなんて、誰にも決められない。その間で揺れながらも、おかあさんは新しい生活へ向かおうとしている。
平岩弓枝の『御宿かわせみ』を思い出した。江戸の町にある小さな宿屋。そこには、さまざまな事情を抱えた旅人たちがふらりとやってきて、少しの間だけ羽を休め、またそれぞれの道へ帰っていく。
この木造の仮設団地も、おかあさんにとっての、風通しの良い「宿」だったのかもしれない。どうしようもない嵐を避けるために身を寄せた場所で、思いがけずあたたかな人の縁に恵まれ、たくさんの時代小説のページをめくった。
「新しいおうちも、いい風が通るといいですね」
私がゆっくりと言葉を返すと、おかあさんは「そうだねえ」と深く頷いた。
帰り際、おかあさんの背中を見送りながら、カウンターに置かれた文庫本の表面を手のひらでそっと撫でる。さっきまでおかあさんの手にあった文庫本。ここに戻ってくるまでに、おかあさんがこの場所で過ごした時間の厚みが重なっている気がした。
おかあさんの新しい「宿」にも、変わらず本を届けに行こう。
これは、日記という名を借りた私の記憶。



