
午後の陽光が、大きな窓から惜しげもなくリビングに降り注いでいる。ボラン京子は、ゆったりとしたソファに身を預け、バッハの無伴奏チェロ組曲に耳を澄ませていた。構築的で、厳かで、寸分の隙もない旋律。それは、常に完璧な音と表現を弟子たちに求める彼女自身の精神を整え、穏やかな秩序で満たしてくれる。手にしたハードカバーのページを、細く美しい指が静かにめくった。
完璧な休日の午後。完璧な静寂と、完璧な音楽。
その完璧な調和を、不意に破るものがあった。
リビングの隅、専用の大きなクッションの上で眠っていたはずの愛犬、レオンベルガーのフィデリオが、もぞもぞと身じろぎをし、やがて巨体をのっそりと起こしたのだ。大きなあくびを一つして、フィデリオは京子の足元まで歩み寄ると、そのライオンのような大きな頭を、ことんと彼女の膝の上に乗せた。
「ん?」
京子は、本から視線を上げた。まだその表情には、気品と威厳が残っている。
「どうしたの、フィディ。お利口さんにしてなさいな」
本を閉じ、その大きな頭を優雅な手つきで撫でる。ゴワゴワとした硬い毛の下にある、温かい体温が伝わってくる。
フィデリオは、満足そうに目を細めると、今度は「くぅーん」と、その巨体には似つかわしくない、甘えきった声を出した。そして、太い尻尾が、フローリングの床を「ぱたん、ぱたん」と、愛情表現のメトロノームのように叩き始める。
その瞬間、ボラン京子の纏っていた鎧が、音を立てて崩れ落ちた。
「あらあらあら〜、フィデリオちゃん、どうちたですか〜? ママがご本読んでて、寂しくなっちゃったですか〜?」
先ほどまで、バッハの構築美と厳格な対話でも交わすかのように対峙していた人物と、同一人物とは到底思えない。眉は下がり、口元はだらしなく緩み、その声は威厳のかけらもない、甲高い赤ちゃん言葉に変わりつつあった。
京子は読んでいた本をソファに放り出すと、肌触りの良いシルクカシミアの部屋着が皺になるのも構わず、自らも床に座り込み、フィデリオの大きな体を両腕でぎゅうっと抱きしめた。ふさふさのたてがみに顔をうずめ、犬独特の、太陽と獣の匂いが混じったような香りを、思いきり吸い込む。
「よちよち、いい子でちゅね〜。フィデリオは世界一カワイイ賢い子でちゅからね〜」
フィデリオは喜びのあまり、京子の頬をぺろぺろと舐め回す。犬のよだれで顔中がべとべとになるのも、セットされた髪が乱れるのも、今の彼女にはどうでもよかった。むしろ、この「美しくない」状況こそが、彼女にとって何よりの癒やしだった。
この温かい生き物の前では、完璧でなくてもいい。論理的でなくてもいい。ただ、ありのままの自分で、愛情を注ぎ、注がれることが許される。この絶対的な安心感。
ひとしきりじゃれ合った後、京子はフィデリオを伴ってソファに戻った。大きな犬をしっくりとなじむ抱き枕にして、再び体を預ける。フィデリオは京子の腕の中で満足そうな寝息を立て始め、その穏やかな振動が、京子にも伝わってくる。
部屋には依然として、バッハの無伴奏が静かに流れている。
窓の外では、白い雲がゆっくりと西へ流れていく。
やがて、京子の意識も、穏やかな眠りの海へと沈んでいった。その口元には、満ち足りた無防備な笑みが浮かんでいた。
了
作・千早亭小倉
初出:『ラブちゃんの筑前煮』



