かんたは、小さな移動図書館車。
その日、かんたの巡回ルートに、新しい場所が加わった。
丘の上に立つ、白くて静かな建物。老人ホームだ。かんたがゆっくりと駐車場に入ると、ガラス張りのラウンジから、何人かのお年寄りがこちらを見ているのが分かった。
やがて、自動ドアが開き、介護士の女性に車椅子を押された、一人のおばあさんがやってきた。おばあさんは、かんたを見てはいなかった。おばあさんは、どこか遠くを見ているようだった。
「さあ、はるさん。ほら、本がたくさんありますよ。はるさんは、絵本がお好きでしたよね?」
介護士は、明るく、優しい、よく通る声で話しかける。でも、それはおばあさんに語りかけているようでいて、実は誰にも向けられていない言葉のようにかんたには聞こえた。
かんたは、そっと横の扉を開けて、色とりどりの本棚を見せた。
動物の絵本、花の図鑑、昔の街並みの写真集。介護士は、何冊か手に取って、おばあさんの目の前に広げてみせる。
「これはどうです? ワンちゃん、かわいいですよ」
「こっちは、きれいなお花ですねえ」
けれど、おばあさんは何の反応も示さない。その瞳は、ただぼんやりと、かんたの鉄のからだと、本棚にあふれた色を、一枚の風景として映しているだけだった。
介護士が、少し困ったように息をついた、その時だった。
おばあさんの、皺の刻まれた指先が、ぴくりと動いた。そして、ゆっくりと、震えながら、一冊の絵本に向かって伸びていく。
それは介護士が差し出している本ではなかった。本棚の隅に、差し込まれていた薄い一冊。
おばあさんは、その絵本の背表紙の、鮮やかな「黄色」の部分に、そっと触れた。まるで、そこにだけ、彼女の世界のすべてが凝縮されているかのように。
それ以上の動きはなかった。指は、ただその黄色をなぞるようにするだけ。
「あら、これがいいですか?」
介護士は、おばあさんがその黄色い背表紙の本を選んだのだと解釈して、迷いなく本棚から抜き取ると、おばあさんの膝の上に置いた。
「『ひよこさんとたんぽぽ』ですって。いいですね。はるさん、これにしましょう」
おばあさんの指は、表紙のひよこの絵にも、題名にも触れようとはしなかった。
「よかったですね、はるさん」
介護士は、満足そうに微笑んだ。
おばあさんは、膝の上の絵本の黄色い部分を、指で何度も、何度も、確かめるようになでているだけだった。
やがて、車椅子は向きを変え、またあの白くて静かな建物の中へと、ゆっくりと帰っていく。
かんたの体には、何百という物語が詰まっている。
冒険、友情、愛、そして知恵。それらを届けることが、かんたの誇りだった。
でも、今、あのおばあさんがかんたから受け取ったのは、物語ではなかった。友情でも、愛でも、知恵でもない。
ただの、「黄色」という、一片の色だけだった。
あの黄色は、昔飼っていた小鳥の色だったのだろうか。
子どもの頃に着ていた、ワンピースの色だったのだろうか。
初恋の人がくれた、一本のたんぽぽの色だったのだろうか。
それとも、もう何もかもが失われた記憶の闇の中で、最後に残った、意味のない、ただの光の染みだったのだろうか。
かんたにも、誰にもわからない。
かんたは、一冊の絵本が貸し出されて空になった本棚の薄い隙間と、遠ざかっていく車椅子の背中を、ただ静かに見つめていた。
夏の午後の日差しの中に、ぽっかりと口を開いた人の心を、かんたは感じていた。
おしまい
作・鈴木美桜




