夏の光が、音巴里荘の森閑とした庭に、数えきれない木漏れ日を降らせていた。空間そのものから沸き立ってくる蝉時雨が、熱を帯びて陽炎のように揺らめく空気を震わせている。その中心に、阿斗理恵はいた。
年季の入った巨大な木製のたらいを慣れた様子で軽々と持ち運び、庭の真ん中に据える。続いて、歳月を経て深い飴色に光り、幾万のストロークを記憶して波打つ洗濯板。そのどちらもが、人の営みの記憶を吸い込んだ、この土地の骨身の一部であることを物語っていた。理恵は屈強な男物のTシャツの袖を、隆起した上腕筋のきわまでたくし上げると、汗の滲む額を前腕でぐいと拭い、満足げに長く息を吐いた。Tシャツの裾から覗く腹筋は、野性味を感じさせるほどしなやかに引き締まっている。
「さて、と」
庭の隅に鎮座する古びた手押しポンプの井戸に、理恵は全体重を預ける。ギィ、ゴトン、という鉄の軋む鈍い音。錆と土の匂いをかすかに孕んだ冷気が立ち上り、汲み上げたばかりの地下水が、迸るようにたらいへと注がれていく。水面が真昼の太陽を乱反射させ、理恵の真剣な横顔や、むき出しにされた逞しい腕を、きらきらと聖別するように照らし出した。
彼女は、山と積まれた洗濯物を、一切のためらいなく水に沈める。くたびれた白いシーツ。赤井葵の着古した、毒々しいほどに鮮やかな色のTシャツ。騒音寺ノイズが徹夜明けに残していった、汗とインスピレーションの染みついた作業着。音巴里荘の住人たちの、剥き出しの生活の断片が、冷たい水の中で渾然と溶け合っていく。
理恵はたらいの前に屈みこむと、一枚のシーツを掴み、洗濯板に広げた。ごつりとした固形の石鹸を、惜しげもなく力強くこすりつける。そして、両の手に全身の力を込める。ゴシ、ゴシ、という、惑星の自転のように規則正しく、それでいて力強い摩擦音が、蝉の声と混じり合う。彼女の肩や背中の筋肉が、そのリズミカルな運動に合わせて滑らかに隆起し、沈んだ。それは単なる労働ではない。水しぶきを上げ、大地を踏みしめ、呼吸を乱す、生命の躍動そのものだった。彼女の全身から発散される汗の匂いと、石鹸の素朴な香りが、むせかえるような夏の草いきれに混じり、庭の空気を濃密に満たしていく。
汗がうなじを伝い、豊かな胸の谷間へと吸い込まれていく。呼吸は次第に熱を帯び、時折、力の入る瞬間に唇の隙間から「んっ」という、短く、しかし濃密な声が漏れた。それは苦痛の呻きではない。身体の芯から湧き上がる、生の歓喜にも似た充足の吐息だった。理恵の頬は上気し、その瞳はどこか潤んで、目の前の汚れというよりは、もっと遠い、根源的な何か——生命が生まれ、巡り、そして還っていく循環そのものを見つめているようだった。
彼女の動きは、譲れぬ手順であり、忘我の果てにある生の交歓そのものでもあった。洗濯板に衣類を叩きつける音、水が跳ねて大地に還る音、彼女自身の荒い息遣い。それらが一体となって、この夏の日の午後に、原始的で官能的な交響曲を奏でている。
不意に、アパートの二階の窓がガラリと開き、髪を真っ赤に染めた葵が顔を出した。
「理恵さん、原始時代やっとるなー。その音聞くと、夏やなーって思うわ。気持ちよさそうやなー」
「あらあら、葵ちゃん。手が空いたら、後でスイカでも冷やしましょうか」
理恵は顔を上げず、手を休めることもなく応えた。その声は、湧き水のように楽しげに弾んでいる。
洗い上げたシーツを、理恵は両腕に渾身の力を込めて絞り上げる。布の繊維が軋み、最後の濁った水滴が大地に吸われて消えると、パンッ、と祝砲のような小気味よい音を立ててそれを空中に高く広げた。陽の光を透過した純白のシーツは、浄化の手順を終えた勝利の旗のように、まばゆく輝いている。
洗い終えた洗濯物を、一つ、また一つと、庭に張られたロープに手際よく掛けていく。風が吹き抜けると、白いシーツや色とりどりのシャツが、まるで解き放たれた魂のように、青空の下で自由に踊った。その光景を、理恵は腰に手を当てて、満足げに見上げていた。汗で濡れた黒髪が、艶めかしく肌に張り付いている。
「まあ、なんとかなるでしょ」
誰に言うでもなく呟くと、彼女は大地に深く根を張る大木のように穏やかに、そして力強く微笑んだ。
了
作・千早亭小倉





