01 晨朝の定数|「新浪いちごの日常」シリーズ

夜明けの気配が、まだ森の奥深くに潜んでいる時刻。新浪いちごは覚醒した。体内時計と連動した覚醒システムが、設定された誤差ゼロの瞬間に意識を浮上させる。寝具から身体を滑り出させる動作に、僅かな淀みも存在しない。床に降り立つ音も、高性能な集音マイクでなければ捉えられないほど微かであった。ミニマルなデザインの居住モジュール内は、外光を完全に遮断するよう設計されており、室温、湿度ともに最適化された数値が維持されている。

いちごはまず、壁面の一部の透過率を調整し、外界の情報を視覚的に取り込んだ。深い藍色の空が、東の稜線から徐々にその濃度を薄め始めている。森の木々は、まだ夜の静寂を纏った黒いシルエットとして網膜に投影された。気圧、気温、風速、降水確率。それらの気象データは、既にモジュール内のセンサー群によって収集され、いちごの覚醒と同時に彼女のパーソナルデバイスへと転送済みである。

隣室から、微かに音韻が漏れてくる。「らっら」という、意味内容を持たない単調な反復。弟の活動開始を示すシグナルである。いちごの思考において、それは日常を構成する定数の一つとして処理され、感情の起伏を伴うことはない。

機能優先で設計されたモノトーンの衣服を身に纏う。幾何学的なラインで切り揃えられた漆黒のショートカットは、昨夜整えられた状態から一糸の乱れも見せない。洗面、口腔ケア、全てがプログラムされた手順通りに、最短時間で完了される。

キッチンユニットの前に立つと、あらかじめ入力されている今週の栄養摂取計画に基づき、朝食の準備が開始された。献立の選択に迷う時間は存在しない。二人分の食材が、必要な量だけ正確に取り出され、調理というよりはむしろ化学実験に近い精度で処理されていく。思考は既に、今日検証すべきいくつかの仮説のシミュレーションへと移行していた。弟の生命維持に関わるタスクは、高度に最適化されたルーティンであり、いちごの並列思考を阻害する要因とはならない。

弟の個室の扉を開ける。彼は既に覚醒し、床にいくつかのプラスチック製レンゲを並べていた。その配列は、昨日とは異なるパターンを示している。いちごは、その変化を記憶し、後ほど自身のデータベースに記録する。弟は、いちごの気配を察知すると、「らっら」と短く発し、視線を彼女に向けた。しかし、その瞳は外界を捉えているというより、内なる何かに焦点を合わせているように見える。

いちごは弟の手を取り、リビングエリアへと促す。弟は、手にしていたレンゲの一つを強く握りしめたまま、抵抗なく従った。食卓には、栄養バランスと消化効率を計算し尽くされた二つの皿が並んでいる。いちごは弟を椅子に座らせ、スプーンを手に取った。弟の口元へと、一定のリズムで食事が運ばれる。弟は、時折「らっら」と発しながらも、差し出されたものを咀嚼し、嚥下する。その一連の動作は、あたかも精密な機械が別の機械にエネルギーを供給する工程のようであり、そこには人間的な機微の介在する余地はなかった。

食後、いちごは玄関ユニットのエア循環システムを起動させ、外部との気圧差を利用して床面の微細な塵埃を除去する。その時、玄関ポーチの隅に置かれたものに気づいた。瑞々しい緑色の葉物野菜。昨日までは存在しなかった物体である。形状、色彩、質感から、レタスの一種と識別された。

いちごはそれを拾い上げ、表面を観察する。付着した土の粒子、葉脈のパターン、微細な昆虫の食害痕。全ての情報がスキャンされ、分析される。隣家の老婆が時折置いていく食料の一つであろうと推測された。老婆の行動アルゴリズムにおける、「食料の無償提供」という出力。その発生頻度と条件については、継続的なデータ収集と分析が必要である。

この予測外の食料供給は、本日の献立計画における新たな変数として即座に組み込まれた。タンパク質、脂質、炭水化物の最適バランスを維持しつつ、総摂取カロリーを調整する。いちごの思考は、既に新たな計算を開始していた。感謝や喜びといった情動は、彼女のシステムには実装されていない。それは、問題解決のプロセスにおいて不要なノイズでしかないからである。

森の木々が朝の光を浴びて、その輪郭を鮮明にし始めている。鳥類の活動が活発化し、森全体から発せられる音響情報の周波数帯域が変化する。それら全てが、いちごにとっては連続するデータストリームの一部に過ぎない。彼女の一日は、無数の定数と、時折現れる変数によって構成される論理の連なりとして、ただ静かに始まっていた。

作・千早貞小倉


絶対零度の知性|新浪いちごの日常シリーズ
かつてAIとの知性比べにおいて敗北を認め、研究の第一線を退いた元・天才科学者の少女「新浪いちご」と、その弟「ナツ」の生活を描いた掌編シリーズです。森の中のモジュールで暮らすいちごは、自身の感情を排し、あらゆる事象を「データ」「定数」「変数」…
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氏名:新浪 いちご(しんなみ いちご)年齢・性別:18歳・女性肩書:元国際量子記号研究所研究員ここあんの森の奥深くに建つ居住モジュールで、弟のなつひこと暮らしています。かつてAIに知性の優位性を明け渡したことから人間性を捨て、「論理の神」に…
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