これは、編集プロダクション「ぽんちょ」が椎名町三丁目に移転する前、まだ、オフィスがここあん村のビジネス街にあったころの話。
それは、ブックカフェシズカの中野小春がパートとして働き、ものがたり屋の真田まるがライターとして出入りしていた、のどかな時代。ぽんちょを騒がしくするのは、臼葉さんひとりだった。
この日も、昼下がりの「ぽんちょ」は、いつも通りの穏やかな空気に包まれていた。
「ねぇ、中野さん、聞いた?」
パート職員の中野小春がデスクに向かっていると、ライターの真田まるがひょいと顔をのぞかせた。
「えっ、何、なに?」
小春が興味半分、怪訝さ半分の顔をする。当時のまるは、ここあん村の怪しい都市伝説を拾ってきては、小春に真っ先に耳打ちするのが常だったからだ。
「臼葉さん、また恋してるんだって」
「臼葉さんって、あのというか、ここの臼葉さん……?」
「そう、あのこの、その臼葉さん。この前区役所に行ったら、窓口のお姉さんに親切にしてもらって、もうメロメロ!」
「そういえば、妙に機嫌がよかった日あったかも。あらあら、臼葉さんったら……」
小春は苦笑する。臼葉は「ぽんちょ」の編集者の一人だが、仕事はできても女性には全くモテないことで有名だった。いつもぶつぶつと独り言を言いながら社内をうろつき、何か思いつくと奇声を発したり、突然事務所を飛び出したりする奇行が目立つ。
「で、そのあと法務局に行ったらしいんだけど……」
まるが話を続ける。
「法務局でも、そこの窓口のお姉さんに優しくされて、今度はその人に惚れちゃったんだって!」
「ええっ!? 続けざまに!?」
小春は驚きを隠せない、というか、あの臼葉さんならと、すぐに納得に気持ちの路線を切り替える。
「なの、なのよ! しかも、そのお姉さん、ちょっと中野さんに似てるんだって」
まるがニヤリと笑う。
「ええっ! 私に!?」
小春は顔を赤らめる。が、ちっとも嬉しくはない。臼葉が自分に気があるなんて、想像もしたことがなかった。やはり、ちっとも嬉しくない。
「まさか、臼葉さんの恋のターゲットは……」
まるが何も書かれていないメモ帳をめくり、えんぴつがわりに指をなめなめして見せる。
「そんな、私、全然……」
「そうそう、次こそ、本丸、突入よ!」
まるが妙に煽るものだから、小春はドキドキしながら、臼葉の姿を探した。
いない、と思った刹那、事務所のドアが勢いよく開いた。
「中野さぁーん!」
臼葉が血相を変えて駆け込んでくる。
「大変です! 今、銀行に行ったら……」
息を切らしながら臼葉が叫ぶ。
「窓口のお姉さんに……!」
「また惚れちゃったか」
まるが呆れたようにため息をつく。
「あ、真田さん、いえ、違うんです!」
臼葉は顔を真っ赤にしてまるに手をぶんぶんする。
「その、銀行のお姉さん……」
「ど、どんなお姉さんだったんですか?」
小春が恐る恐る尋ねる。
「ど、どんな?」
臼葉が言葉を詰まらせる。
「ち、違う! そのお姉さんに……」
「お姉さんに……?」
「お金を下ろすのを手伝ってもらったら……」
「……?」
エアコンの音より大きなゴクリが、事務所のフロアに響く。
「通帳の残高が!」
「……?」
「ゼロだったんです!」
臼葉はがっくりと肩を落とした。
「ひええっー!!」
ぽんちょに響き渡る、小春とまるの悲鳴。
臼葉の恋は、今回もまた、予想外の結末を迎えたのであった。繰り越せ、臼葉!
(了)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/01/tops2.jpg)

