【登場人物】
矢尾 玲子:きさらぎタウン在住。「ステキさん」を自称し、あらゆる不都合を「ステキ」で上書きする現実歪曲能力の持ち主。39歳。娘のリリカを「プリンちゃん」と呼ぶ。
矢尾 リリカ:玲子の娘。18歳。ここあん高校生。母の自己愛を軽蔑し、シニカルな視線で世界を解体する「冷たい最強」。
【場面設定】 きさらぎタウン、矢尾家のリビング。午後、ハーブティーの香りが漂う中で。

玲子:プリンちゃん、聞いて。ステキさんったら、最近すごくいい体験をしたの。
リリカ:何。また高い美容液でも買ったの。
玲子:違うわよ。もっとこう、内面からキラキラするような、そう、「アハ体験」よ!
リリカ:(淹れたてのティーカップを眺めながら)アハ体験? お母さんの口からそんな言葉が飛び出すなんて。
玲子:何言ってるのよ。この前、プリンちゃんが教えてくれたばかりじゃない。
リリカ:脳がひらめく瞬間の、神経科学的なプロセスのことでしょう?
玲子:そう! そのチーズみたいなそれよ。ステキさんね、きさらぎ通りのブティックで、すっごくステキな、ちょっとだけ予算オーバーなドレスを見つけたの。
リリカ:(無言で玲子を見る)
玲子:それをね、レジに持っていく瞬間に「アハ!」って。
リリカ:(玲子を真似て)何が「アハ」よ。単なる散財でしょ。
玲子:違うわよ。カードを切った瞬間にね、脳がパァーッて明るくなって、「あ、これ、ステキさんが買うためにこの世に存在してたんだわ!」って気づいたの。これこそが、プリンちゃんが言ってたアハ体験、ステキな脳の洗濯だわって。
リリカ:それ、ただの買い物依存症のドーパミン放出。アハ体験っていうのは、間違い探しに気づいた時とか、未解決の難問が解けた時に脳の回路が繋がる現象のこと。
玲子:あらやだ、プリンちゃん。だったら、やっぱり私のもその「アハ体験」そのものじゃない?
リリカ:どこが。
玲子:だって、ステキさんの人生における「どうやってこのステキなドレスを手に入れるか」っていう難問が、カード一枚で解決しちゃったんだもの。脳の回路どころか、きさらぎタウンのヒエラルキーも繋がった感じよ。
リリカ:呆れて、紅茶の温度が3度くらい下がった気がする。
玲子:あら、冷めたハーブティーも「アイスハーブティー」って呼べば、それはそれでステキなアハ体験じゃない?
リリカ:見事な認知の歪みね。怪しい宗教の教祖でも、もう少し筋の通った教義を作るわ。
玲子:ふふっ。でもね、ステキさんの脳はもっとステキな進化を遂げたのよ。さっき、パパから「今月のカードの引き落とし額、どうなってるんだ」ってメッセージが来たの。
リリカ:ついに現実が追いついてきたわけね。それで、ちゃんと謝った?
玲子:その瞬間、脳内でまた「アハ!」ってひらめいたの。「あ、これはパパに『もっと稼ぐ喜び』を与えるための、ステキな試練なんだわ」って。
リリカ:ただの現実逃避をアハ体験で包装しないで。お父さんの胃に穴が空くプロセスを加速させているだけよ。
玲子:大丈夫よ。パパの胃の穴も、新しい風が通るステキなトンネルだって思えばいいのよ。
リリカ:さすがに聞き捨てならんわ。脳の洗濯じゃなくて、倫理観の漂白ね。
玲子:さすがプリンちゃん、お上手。
リリカ:プリンちゃん連発で、もうこっちが麻痺しそう。
玲子:そんなときは、ほら、このマカロンでも食べなさい。糖分を摂れば、プリンちゃんの固い脳も少しはふんわりするかもしれないわよ。
リリカ:(マカロンを手に取り、一口かじる)脳はふんわりしないけど、ママの頭の中がこのマカロンみたいにスカスカで甘ったるいトンネルだってことは、実感できたわ。
(幕)
作・千早亭小倉
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