コント「加速するランナー」

【登場人物】
平泉 慧
:ここあん大学で理論物理学を専攻する大学院生。エネルギー保存の法則を遵守し、無駄な動きを嫌う究極の省エネ主義者。
篠田 律:同大学で分子系統学を専攻する大学院生。世界を情報と分岐のネットワークとして捉える。
AIスピーカー:ラウンジ「アンコンフォーミティ」にいる、常に斜め上の出力をするAI。
徒 然士:ここあん大学の日本文学科講師。完璧な様式美を愛する偏執狂。

【場面設定】
ここあん大学早稲田サテライトキャンパス地下一階。学生ラウンジ「アンコンフォーミティ」。年代物のテレビから、マラソン中継の実況音声が流れている。

平泉 慧:(片手を紙の束の上に置き、もう一方の手を頬に添えた絶対静止の姿勢でテレビを一瞥する)エネルギーの無駄な消費。リモコンを取るのもおっくうだけど、チャンネルを変えたい意識が勝ちそう。

篠田 律:(スマートフォンで架空の系統樹を指でなぞる手を止めて)「チャンネルを変えて」って言ったほうが早いですよ、慧先輩。(テレビに目をやる)この先頭を走る選手の姿、まさに『長距離走者の孤独』って感じですよね。

:長距離走者の、孤独?

AIスピーカー:(ランプを明滅させる)アラン・シリトーの短編小説『長距離走者の孤独』ですね。1959年に発表されたイギリスの小説です。感化院に収容された少年がクロスカントリー大会に出場し、権力者への反抗としてゴール直前で自ら立ち止まり、敗北を選ぶという物語です。

:(怪訝そうな表情。テレビ画面で必死にゴールを目指している選手と、AIが語ったあらすじの不整合を認識)意外、律も小説なんて読むのね。それも、1950年代のイギリス文学なんて。画面の彼は完走を目指して力走しているように見えるけれど、あなたは彼の走りに権力への反抗を見出したというわけね(やや、皮肉交じり)。

:(得意げな表情も引きつり気味)ええ、まあ。教養として分岐のパターンを網羅しておくのは常識ですよ。

AIスピーカー:シリトーのデビュー作として、1958年の長編『土曜の夜と日曜の朝』も有名です。

:ああ(「知ってる、あの小説よね」の風で)。

:慧先輩も知ってるんですね、アランを。

:(一瞬の間)ええ。土曜の夜でしょう? 真面目でお堅い会社員の主人公が、土曜の夜のパーティーでうっかり酒を飲み過ぎて、日曜の朝に目覚めると、見知らぬ部屋で犬猿の仲の同僚と同じベッドにいたという、あの王道のドタバタラブコメ。

AIスピーカー:(一瞬の間)その通りです。

:(「あれ、正解?」の顔)

:へえ、1950年代のイギリスにも、そういうラブコメのフォーマットが存在していたのね。情報の系統樹として、非常に興味深い。

AIスピーカー:ただし……。

(慧と律が、スピーカーのほうを見る)

AIスピーカー:その後二人は突如として宇宙人に拉致され、月面基地で巨大なバニラアイスクリームを採掘する過酷な労働を強制されることになります。

:ずいぶんと非合理的な展開ね。

:文学のジャンルが完全に分岐しているわ。

(徒然士、登場。開け放たれたラウンジの入り口で足を止め、怪訝な顔で2人を見る)

徒然士:いかがなされた。リケジョおふたりで文学論議と見たが。

平泉慧:あ、徒然つれづれ先生。イギリス文学の特異な展開について、AIから情報を得ていたところです。

徒然士:ほう。私の耳にも少しだけ入ってきたが、そのロボットは一度診てもらったほうがいいかもしれんな。まあ、そのままにしておくのも、一興。ちょんまげ生えるほど面白いものが見られそうだが。では、私はこれで。

(徒然士、立ち去る。テレビ画面では、先頭を走っていた選手が見事にゴールテープを切り、優勝インタビューが始まる)

アナウンサーの声:見事なラストスパートでした。あの力走の原動力は何だったのでしょうか。

優勝ランナーの声:権力への反抗心です。私は誰の操り人形にもならないということを、この走りで証明したかった。それから……。

アナウンサーの声:それから?

優勝ランナーの声:やっぱり、試合前のバニラアイス。私の元気の源です。

:(目を見開いてテレビを見る)慧先輩。情報の系統樹が完全に一致したみたいです。

:(頬に添えていた手を下ろし、画面に視線を向ける)月面で採掘されたアイスでないと、完全とは言えないでしょう。

AIスピーカー:その通りです。

:あなたは黙っていなさい。

(慧が無言でテレビの電源を切る)

(幕)

作・千早亭小倉

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