【登場人物】
微笑 えみ緒:微笑書店店長。冷静沈着で本と村の歴史を深く愛する。青髪のショートボブ。
微笑 えみ心:微笑書店カフェ担当。天真爛漫で行動的。緑髪のショートボブ。
【場面設定】
きさらぎタウンにある「微笑書店」のカフェスペース。開店前の静かな時間。

えみ緒:(カウンターで古い郷土史の束に顔を近づけ、深く息を吸い込む)新しい本の匂いは素晴らしい。でも、古い本の匂いはもっと素晴らしいわ。
えみ心:(キッチンから顔を出し、ボウルを泡立て器でかき混ぜる)それ、聞いたことある。誰の言葉だっけ。
えみ緒:レイ・ブラッドベリよ。彼が言う通り、この紙とインクが発酵したような甘い香りには、確かな歴史の重みがあるの。
えみ心:発酵っていうか、カビと埃の匂いだと思うけど。お姉ちゃん、アレルギー出ないようにね。
えみ緒:これはカビではないわ。知識が熟成された香りよ。ブラッドベリはこうも言っているわ。人間は死ぬとき、必ず何かを後に残さなければならないと。
えみ心:なるほど。お姉ちゃんはこの埃っぽい古文書の山を後世に残すわけね。
えみ緒:「埃っぽい」は余計よ。私はこの村の歴史という見えない遺産を、次の世代へ繋ぎたいの。えみ心は、何をこの世に残すつもりなのかしら。
えみ心:私? もちろん、この新作の特製ハチミツレモンケーキのレシピよ。昨日から試作を重ねて、ついに黄金比を見つけたの。
(えみ心がボウルを置き、オーブンを開ける。甘酸っぱいレモンとバターの強い香りが店内に広がる)
えみ緒:ちょっと、えみ心。レモンの香りが強すぎるわ。せっかくの古書の匂いが上書きされてしまう。
えみ心:いいじゃない。古い本の匂いと焼き立てのケーキの匂い。これが私たちの微笑書店の新しい匂いになるのよ。
えみ緒:匂いが混ざることで、本の持つ本来の文脈が損なわれる危険性があるわ。
えみ心:文脈より食欲よ。このケーキを食べた子どもたちが大人になって、また自分の子どもにこの味を伝える。それこそが立派な遺産よ。
えみ緒:味の記憶だなんて美化しているけれど、結局は胃袋に入って消費されるものよ。私が守ろうとしているのは、物理的なカロリーではなく、確かな知の記録なの。
えみ心:でも、お姉ちゃんが残そうとしている本だって、いつかは紙のおさかなさんに食べられてカロリーになるわよ(魚が泳ぐポーズを取る)。
えみ緒:なにが「紙のおさかなさん」よ。「紙魚」でしょう? 紙の魚と書いてシミ。
えみ心:え〜、ものがたりっぽくてお姉ちゃん好みかなって。
えみ緒:魚と書くけれど、あれは本を食べるただの虫よ。なぜあんな字を当てるのかしら、まぎらわしい(思索の世界に入っている)。……というか、そんな虫と人間を一緒にしないで頂戴。
えみ心:あ、戻ってきた。おかえりー。そうそう、ブラッドベリだって、お腹が空いたら本よりケーキを選ぶと思うわ。
えみ緒:彼はそんな俗物ではないわ。
えみ心:お姉ちゃん、難しく考えすぎだよ。本を読んで心を満たして、ケーキでお腹を満たす。私たちはふたりでひとつの微笑書店を残せばいいのよ。
(えみ心はオーブンからケーキを取り出し、切り分けて皿に乗せ、えみ緒の前に置く)
えみ心:ほら、食べてみて。
えみ緒:(フォークで一口食べる)美味しい。
えみ心:でしょう。これで私の遺産も安泰ね。
えみ緒:でも、このレモンの匂いのおかげで、私が整理していた昭和30年代の村の地図から、柑橘系の香りがするようになってしまったわ。
えみ心:爽やかな地図でいいじゃない。
えみ緒:地図は爽やかである必要はないの。
(幕)
作・千早亭小倉
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