【登場人物】
岸辺 義道: 映画監督志望の大学生。斜に構えているが、美しい「静の映像を撮る才能を持つ。実家は小古八幡地区にある古い寺。
ボラン 京子: ドイツ歌曲の講師で元オペラ歌手。完璧な美意識を持つが、愛犬フィデリオ(レオンベルガー)の前では完全に幼児退行する。
【場面設定】
小古八幡にある義道の実家(寺)の客間。檀家や地域住民向けの「初夏のグリーンコンサート」が終了し、静寂が戻っている。縁側は新緑の庭に向けて開け放たれており、庭の木陰には京子の愛犬フィデリオが繋がれて大人しく待っている。義道は寺の住職である師匠(父親)に記録用ビデオの撮影を頼まれており、その一環として、着替えを終えた京子へのインタビュー撮影を行っている。

岸辺義道:……というわけで、記録用ビデオ、回させてもらってます。本日の「初夏のグリーンコンサート」、大盛盛況、大大盛況、ん、どっちや? ボラン先生、あの張り詰めた空気と圧倒的な威厳、どうやって作ってるんですか。お寺のイベントのアーカイブとして、ぜひ一言お願いします。
ボラン京子:(カメラに向かって優雅に微笑み)当然のことよ。芸術とは、己の感情を完璧に律する冷徹な規律から生まれるの。舞台に立つ以上、ほんのわずかな隙や甘えも見せてはならないわ。
義道:(カメラを回したまま、少し身を乗り出して)完璧や。住職も喜びます。あ、先生、インタビューのついでに、ちょっと個人的な相談に乗ってくれませんか。俺が今作ってる自主映画の、BGMのことなんですけど。
京子:あなたの自主映画の? いいわよ。見せてみなさい。
義道:(傍らのノートPCを開く)雨に濡れた石畳の映像なんですけど、このフリー素材のBGMを乗せると、急に安っぽいドラマみたいになってまうんです。
京子:(画面を一瞥して)この絵、あなたが撮ったの? ちょっと、驚いた。才能あるじゃないの、あなた。でも、その音源、シンセサイザーの安っぽい音が、この静謐な風景の品格を泥沼に引きずり込んでいるわ。
義道:なら、どんな音が正解なんですか。あえて、無音にとかも考えたんですけど。
京子:そうね、無音も。でもそれは、逃げね。必要なのは、映像の緊張感を際立たせるような、生の肉体から発せられる声よ。たとえば、対象へ無条件の愛を注ぐような、無防備な「囁き」。ドイツリートでも、極小の声にこそ最も豊かな倍音が含まれるのよ。それが空間のノイズを消し去る。
(もう、空に向かって話しかけているような、京子)
義道:豊かな倍音? (つぶやく)倍の倍の倍ってやつか? (京子に向かって)クリエイターの勘として、なんとなく分かります。その、あえて息を多く混ぜるような、空間を支配する囁き。先生、先生の声を録音させてくれへん……あ、いただけませんでしょうか? オペラやなくて、その説得力のある声で、何か囁いてほしいんです。
京子:(鼻で笑う)私の声をフリー素材と同列に扱う気? お断りよ。私は完璧な調和と美意識の中でしか、声を……。
フィデリオ:(庭から開け放たれた縁側へ、大きな尻尾を振って顔を覗かせる)くぅーん。
京子:(表情が一瞬で崩壊する)……あらあらあら! フィディちゃん! ママのお歌、終わるまでお外でお利口さんに待ってたでちゅか〜!
義道:(目を見開く)えっ?
京子:(縁側に駆け寄り、大型犬の顔を両手で挟んで撫で回す)よちよち、寂しかったでちゅね〜。ママ、フィディちゃんのことだーいしゅきでちゅよ〜! ちゅっちゅっ!
(唖然とするが、無意識に手元の高性能ガンマイクを京子に向ける)
京子:(犬の首筋に顔を埋めながら)お腹しゅいたでちゅか〜? 今からお家に帰って、美味しいおやつ、一緒に食べるでちゅよ〜。
義道:(PCの画面を見ながら、リアルタイムで録音した音声を映像に合わせる)……雨の石畳の静かな映像に、この極上のアルトボイスによる「でちゅまちゅ」。これ、データや周波数とかそういう理屈やない。凄まじい倍の倍の倍成分が乗っとる。それで、この映像に信じられんほど不気味にはまるんや。意味が完全に剥奪されて、映像の不条理さが限界突破しとる。
京子:(犬に頬ずりしながら)フィディちゃんのお鼻、冷たくて気持ちいいでちゅ〜! ママのお鼻もくっつけるでちゅ〜!
義道:(PCの画面を食い入るように見つめ)これや。この一流の音楽家が放つ、無防備な囁きこそが、本物の前衛や!
(幕)
作・千早亭小倉
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