氷上静は、実家の門を背にして歩き出した。
右にはここあん鉄道の線路、左には無機質な住宅の塀が続いている。視界の先まで、古びたアスファルトが約400メートルにわたって単調な直線を引いていた。右にも左にも曲がる場所がない、ただの一本道だ。
実家を出た後に感じる重苦しさは、病床の母、冬子の圧倒的な存在感のせいだと静は思っていた。しかし、変わらない景色の中を歩き進めるうち、静はふと気づいた。
交差点も信号もない。右か左かを選ぶ必要すらない。外側へ向かうべき注意が役割を失い、行き場をなくして自然と自分自身の内側へと反転してくる。
「正しさなんて、ただの退屈なしおりに過ぎないわ。人間が本当に生きているのは、本を閉じた後の、あの割り切れない余白の中だけよ」
細く衰えた体から放たれたその言葉を、静は反芻した。
間近に死を控えた人間の言葉は強い。だが、自らの拠り所をあっさりと手放すほど、静は従順な飼い犬ではない。母の生み出す熱量に当てられても、静には守るべき理論がある。割り切れない余白などという曖昧なものに、自分の全てを明け渡すわけにはいかない。
足取りは重い。道に変化がない分、意地のように抱え込んだ理屈が静の内で堂々巡りを繰り返していた。
そのとき、立ち止まった静の口から、不意に長い息が漏れた。
ため息だった。
常に理性を保ってきた自分が、無意識のうちに息を吐き出していた。その事実に静は小さくうろたえた。
なぜため息をついたのか。防衛機制か、生理的な反応か。静の頭は即座に理由を探そうとする。しかし、吐き出した息は白く濁り、冷たい空気と混ざって消えていくだけだ。
そして、胸のつかえは確かに少しだけ軽くなっていた。
論理を手放す気はない。母の言う余白を全面的に認める気もない。それでも、一本道に促されて無自覚にため息を漏らした自分の滑稽さは、不思議と嫌ではなかった。
「形無しだな」
静は短く呟いた。正しさの殻を捨てる必要はない。ただ、こうしてたまに息を吐き出せばいいのだ。
静は顔を上げ、再び歩き始めた。目指すのは、小春が待つ湖畔のブックカフェ「シズカ」だ。そこで一杯の珈琲を飲む。今はただ、それだけだ。
(了)
作・千早亭小倉




