これは、日記という名を借りた私の記憶。
図書館の事務室。私は、自分のデスクの端に小さな写真立てを置いた。明るい木枠のシンプルなものだ。スマホで撮った写真をわざわざプリントすることもほとんどないし、机に写真を飾ったことも記憶になかった。自分でもよくわからないが、ただその時、飾りたくなったのだ。ガラスの向こうにいるのは、雪よけのトタン屋根が少し錆びた鱒沢の家と、古い軽自動車を背景にして、中野文さんと並んでいる私だ。
「ふふ、遠野の写真?」
背後から覗き込んだ真木まき副館長が、楽しそうな声を上げた。
「あちらでお世話になった、中野文さんね?」
私は、黙って頷いた。
「絶対零度」
まきさんの細長い指が、すっと写真にのびる。私と文さんの後ろに写り込んでいた、文さんの軽自動車のナンバープレートに目を留めたのだ。
知識の宝庫であるまきさんらしい理科的な連想に、私も最初は口元を緩めかけた。それが、私に、別の連想をもたらした。
プレートに刻まれた3つの数字の輪郭。冷たく、黒く、重たい言葉の響き。
喉の奥がきゅっと締まり、息が一瞬止まる。文さんは、あの車を運転するたびに、その響きを背負っていたのだろうか。それともただ偶然割り当てられただけのものとして、気づきもしなかったのだろうか。
壁の時計に目をやる。休憩時間の終わりまで、まだ十分ある。
私はスマホを握りしめ、図書館の裏口から外へ出た。湿気を帯びた春風が、少しだけ熱を持った私の頬を撫でていく。何を走っているのだろう。そんな急ぐことでもないのに、スニーカーの底がアスファルトを叩く音が、やけに早くなった。
連絡先をタップし、耳に当てる。数回のコールの後。
「どした? なにかあった?」
電話の向こうから、文さんののんびりとした声が聞こえてきた。その声の響きだけで、耳元に、あの遠野の山々に囲まれた、濃密な空気が広がった。たった数日前に会ったばかりなのに、不思議な懐かしさが胸の奥に満ちていく。
車のナンバーのこと。写真を見て気づいたこと。それを尋ねようと口を開きかけた。でも、私の唇から滑り出たのは、まったく別の言葉だった。
「馬、見つかりました?」
自分でも驚くような問いかけだった。遠野の朝、防災無線で文さんと一緒に聞いた「牝馬が逃げ出したのでご注意ください」という、あの少し拍子抜けさせられる放送のこと。
電話の向こうで、文さんが小さく息を吐き、笑う気配がした。
「千夏さんが帰った次の日もね、『馬は見つかっていません』って放送があったのよ。あれから何日だろうね。どうなったんだろうね」
くすくすと笑う文さんの声に、私の強張っていた肩の力がゆっくりと抜けていく。
マイケル・ボンドの『くまのパディントン』を思い出した。ペルーから来た子熊のパディントンが、遠く離れた老熊ホームのルーシーおばさんに手紙を書くとき。大事件よりも、その日のちょっとした失敗や、マーマレードの味を真剣に報告するあの感じ。遠くの相手とつながっていることを確かめるのに、重たい言葉は必要ないのだ。
「ねえ、それが、聞きたかったの?」
文さんの声が、少しだけ悪戯っぽく響いた。
受話器越しに、遠野の風が吹く音と、ここあん村の風が私の前髪を揺らす感覚が重なる。私はあえて言葉をすぐに返さず、その心地よい空気の揺らぎの中で、たっぷりと時間を稼いだ。
それから、ゆっくりと答える。
「はい、それが聞きたかったんです」
言葉にできない重みは、分類しないままでいい。ただ、こののんびりとした声を、もう少しだけ聞いていたかった。
これは、日記という名を借りた私の記憶。



