【登場人物】
チョピン:月面レタス隊のパイロット候補生。壊滅的な音痴。
マッド:月面レタス隊のチーフエンジニア。眼鏡の奥にチョコへの執念を秘める。
ヌカヅケ:おばちゃん人格を持つアシスタントAI。
【場面設定】
月面基地「満月亭」の共有スペース。大きな窓から、冷たく輝く青い地球が見える。テーブルの上には、食べかけの栄養ペーストと、チョピンのヘルメットが置かれている。

マッド:前からずっと気になってたんだけどさ。その、フライトスーツの胸のワッペン。
チョピン:ん、これ?(胸を張ってワッペンを示す)
マッド:どう見ても、あの有名なクラシックの作曲家のスペルよね。C・h・o・p・i・n。ショパンよ。なんであんた、自分で「チョピン」なんて名乗ってるの?
チョピン:そりゃ、予防線だよ。
マッド:予防線? 「ショパン」じゃ守れないもの?
チョピン:そう。だって、「ショパンなのに壊滅的な音痴」だなんて地球中に知られたら、私のフライト人生が着陸する前に終わっちゃう。だから、あえて「チョピン」。英語風に、あるいはスペイン語風に。こう、お高くとまった芸術の権威を、ちょっとだけ横にスライドさせる知恵。
マッド:スライドさせるって。そこに、Chopinって縫い付けられている時点で、地球上のほとんどの人が「あの人、ショパンなのに音痴」ってもう思ってるよ。
チョピン:え、私の気持ちは無視?
マッド:知らないわよ。たぶん、地球の人たちも、あなたの気持ちを知らないと思う。
ヌカヅケ:データベースを検索しました。19世紀のポーランドの作曲家だけがショパンではないのです。
マッド:おばちゃん。急にインターフェースを光らせて入ってこないで。で、ショパンだけがショパンじゃないって? まあ、そりゃそうだろうね。
ヌカヅケ:その昔、地球のここあん村という場所に、鳥瞰学園ここあん高校という学校があり、そこに「ショパン」と呼ばれるおっとりした小太りの男子生徒がいました。
マッド:「小太り」は情報として要らないだろ。
チョピン:あ、知ってる。その人、うちの先祖。
マッド:先祖? あだ名か何かじゃないの? 食パン好きの音楽部員とか。日本のショパン家ってこと?
チョピン:おばあちゃんから聞いたことがあるんだ。その人はね、他人の泥臭い言い争いや、ネット上の揉め事を、絶対に安全な客席から「美しい多声音楽」として聞き取って、高級な革装丁の豆本に万年筆で書き写すのが趣味だったんだって。
マッド:それって、ただの盗み聞きじゃない。悪趣味。下手すりゃ犯罪だよ。
チョピン:まあ、それはひとまず置いておいて。その子孫である私はね、自分の音痴を認めて、ショパン家の完璧な調和という歴史から一歩踏み出そうと思ったの。この軽い重力の中でぴょんぴょん跳ね回る、ただの「チョピン」として。
マッド:高尚な話にしてるけど、ぴょんぴょん跳ね回るなら、ショパンでもいいじゃない。「ショパンッ」とか、小さい「ッ」でも付けたらいい。
ヌカヅケ:マッドさん、遺伝子の配列は恐ろしいほど正確デス。チョピンさんの先祖のショパン君が持っていた、「他人の泥臭い生態を、少し離れた場所から音として拾い集めて、一人で悶々とする」という聴覚的な業からは、さすがのチョピン隊員も逃れられなかったのデス。
チョピン:デスって、どういうこと?
マッド:何か知ってるの、おばちゃん?
ヌカヅケ:チョピン隊員は、トイレの個室で、私たち月面レタス隊の隊長、ケッソクさんの「ぁん、ぁん」という可愛らしい声を、隣の個室から息を殺して盗み聞きし、顔を真っ赤にする傾向があるんです。
チョピン:ちょ、ちょっと、ヌカヅケ! なんでそれを、というか、言い方に気をつけてよ。変な風に誤解されるでしょう?
マッド:(息を呑む)。ぁんぁん。盗み聞き。顔を真っ赤に。
チョピン:ほら、ヌカヅケ! マッド、違うの! あの普段キリッとしてるリーダーが、個室の中で一人、すっごく可愛い声で「ぁん、ぁん」って喉を慣らしてたの。咳払いよ、咳払い。
マッド:盗み聞きはしたんだ。
チョピン:誤解、誤解だって。ケッソクさんの口癖といえば?
マッド:「バンバン行くよ! ってどこに?」でしょう。耳タコだよ。
チョピン:そう、それ。「さあみんな、行くよ!」って。
マッド:違うよ、それ。
チョピン:だから、違うのよ。「さあみんな、行くよ! ううむ弱いか。バンバン行くよ!」。
マッド:なに、その小芝居。ケッソクさんの声真似? 似てるけど。
チョピン:だから、聞いてって。「バンバン行くよ! お、これいいね。バンバン、でも、なんかしごきみたいだよね、これじゃ。バンバン行くよ! バンバン行くよ、ってどこに? できた。これだ!」って、ケッソクさんが、トイレの個室でボケとツッコミを完成させたの、聞いちゃったの!
マッド:あのひとりツッコミ、満月亭のトイレで生まれたってこと?
チョピン:そうなの。しかもケッソクさんの地声は、びっくりするくらい乙女。
マッド:でも、リーダーってどっちかっていうと、声、低いよね。
ヌカヅケ:おばちゃんAIは、基地内のすべての音響パルスと声帯の振動ログを、マクロなデータとして常時処理してマスよ。おばちゃんに隠し事は通用しません。
チョピン:今さら、何言ってるの。勝手にデータを丸めたくせに。
マッド:そうだよ。おばちゃん、「ぁんぁん」しか教えなかったじゃない。
チョピン:切り取り厳禁だよ。
マッド:もう、月面の不条理とリーダーの舞台裏の解像度が高すぎて、胃がキリキリする。
(マッド、自分のフライトスーツのポケットを探り、こっそり隠し持っていたチョコレートバーを無言で取り出す)
チョピン:あ、マッドさん。それ、ケッソクさんに没収されたはずの、高級チョコ。下手すりゃ犯罪だよ。
マッド:うるさい。これを食べて脳の糖分を安定させないと、私の理性の結界が完全に崩れて、ただの甘党の泣き虫になっちゃう。
ヌカヅケ:マッドさん、そのチョコ、ケッソクさんに見つかってますよ。床下の配線ダクトの隙間から、すでに1ダースほど回収されてマス。
マッド:え、その、緊急時の備蓄用というか。言いさし。
チョピン:あ、語尾を濁して逃げた。言いさし。
マッド:現実逃避したくなると、言葉の最後を飲み込んじゃうの、私。
ヌカヅケ:大丈夫デスよ、マッドさん。ケッソクさんには、その、トイレでの「乙女ボイスなリハーサル音源」と引き換えに、チョコは一時保管ということで取引を済ませてありますから。
チョピン:おばちゃん、それ、ただの脅迫! AI倫理の完全なバグ!
ヌカヅケ:おばちゃんは、みんなが仲良くお腹いっぱいになれれば、それで満足デスよ。ほら、ツキノコちゃんレタスに、マッドさんのチョコソースをかけて、みんなで食べましょう。
マッド:あれ、本当に不気味な、言いさし。
チョピン:私も、言いさし。
マッド:言いさしの美学。
(マッド、チョコを半分に折り、チョピンに差し出す)
マッド:半分あげるわ。これで、私のささやかな罪悪感を半分こにして。
チョピン:ありがとう、マッドさん。いただきまーす!
(そのとき、突然、共有スペースのスピーカーからジジッとノイズが走り、極端に渋くて重厚な、超絶イケメンボイスが響きわたる)
スピーカー(ケッソクの声):各員、警戒を怠るな。月面の夜は冷える。だが、我々の結束は、いかなる絶対零度よりも熱い。バンバン行くよ!
(マッド、口に含んだチョコを吹き出しそうになり、必死に口をふさぐ。チョピンは抱えていたヘルメットを床に落とす)
マッド・チョピン:(激しくむせながら声をあわせて)って、どこに?
ヌカヅケ:チョピンさん、ハモれてないです。
チョピン:おばちゃん、うるさい!
マッド:しかし、「ぁん、ぁん」から、どうやってこの重低音に着地したのよ。
チョピン:耳に残る。
マッド:あなたの「チョピン」も、発声練習からだね。
(幕)
作・千早亭小倉





